「作品鑑賞」について体系的に述べておく。
「一次元の作品鑑賞」と呼ばれるものがある。「文」である。或いは詩や小説といえばよいか。文は基本的に一本道だ(そこから外れたい場合は脚注をつけるものだが、ご覧のように総て括弧書きに収めてしまえば読みにくくはあるが本質的には一本道になる)。それを辿って得られる体験は変わらない。一人一人違う感想は述べるだろう、従って、心に浮かぶ感情はひとりひとり違うだろう。しかし、物理的にあなたは何を見ましたか感じ取りましたかと言われた時全員がひとつの同じ文章を指す事だろう。この点において、文(詩や小説や)は万人に同じ体験を齎す。
映画は二次元である。が、こちらも文と本質的には似通っている。映画といってもアニメーションを想像した方がいいかもしれない。一枚々々の「絵」が、(古めかしく伝統的なものなら)1/24秒毎に次々と表示されてゆくのを我々は眺める。その意味では、これは文と変わらない。今目の前に展開されている文章の一文字々々々がそれぞれに異なる絵だと思い込んでみよう。映画(アニメーション)とは、その絵の連なりに過ぎない。その意味において、万人がこれまた同じ体験をする。文も映画も、その意味において、万人に全く同じ(物理的)体験を与える。
(本当は文字と絵には際立って本質的な違いがある。文字は文字全体を捉えるが絵は必ずしもそこに描かれている情報総てを受け手側が認識しているとは限らないし、例えば人が二人同時に左右に対峙している絵が映った時に左の人に注目する受け手と右の人に注目する受け手の両方が存在する。その点については深く議論せねばならないのだがここでは一旦省いておく。)
音楽鑑賞体験も同じである。こちらは文や映画と違って“静止”という概念がない為、かなり違う話にはなるのだが、万人が鼓膜を同じに揺らすという意味においてこれまた全員が同じ(物理的)体験を蒙る。
これが、3Dになるとどうなるか。なんらかのパノラマなりジオラマなりが擬似的に提供されたとしよう。ある人はその世界に入って東に歩を進めるかもしれないし、ある人は西に向かうかもしれない。ある人は空を見上げたまま動かないかもしれないし、またある人は同じ場所でぐるぐると回り続けるだけかもしれない。
即ち、「3D作品」は万人に同じ(物理的)体験を齎さない。皆違うものを感じ取る。感想に至ってはまさに"てんでバラバラ"になるだろう。
つまり、「3D」とは、受け手を不可避的に「作品の担い手のひとり」として取り込んでしまう。文章や映画や音楽は、万人が同じ体験を得るという意味において、受け手は作品に対して不可侵である。モナリザはいつ誰がみても、これから何億人に鑑賞されようと作品としてはモナリザのままだ(物理的な風化や劣化はするでしょうが今はその点は捨象しておこう)。しかし、「3D作品」は受け手の存在によって、作品としてはどんどん生まれ変わっていく。こういうものは最早鑑賞とか作品とか作品鑑賞とか言われず、「ゲームやアトラクションをプレイする」という風に言われるようになる。要は、3Dとは「遊び場(の提供)」であって、古典的な文や映画や音楽の"鑑賞"とは別個のところにあるものだと認識しなくてはならないのである。
例えばビョークなどは、3DVRを使って、その「作品鑑賞」と「遊び」の境界線を探るようなミュージック・ビデオをリリースしていて、大変興味深い。動画サイトで鑑賞…いや、"遊べる"ので、興味のある方は検索してみるとよろしかろう。上記で書いたような概念がどういう含意を持つか、手軽に体感する事が出来ますよ〜。
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