無意識日記
宇多田光 word:i_
 



前半から逆接と否定で畳み掛けるMovin' on without youだが、後半は更に高度な展開をみせる。

『あんな約束もう忘れたよ 指輪も返すから』

ここまではまぁ普通である。いや本当はメロディーへの歌詞の乗せ方が尋常じゃないのだがここではその話は省くとして。この後こう続くのが白眉である。

『私のこころ返して』

初めてこの歌を聴いたときここにグッときた人多数だろう。指輪という即物的な、しかし"約束"を比喩するモノとの取引交換が"私のこころ"という抽象概念なのだから恐れ入る。この対比の鮮烈さたるや。

ここでのミソは、直前の接続が『指輪も返す"から"』と順接である事だ。ここまで散々『切なくなるはずじゃなかった"のに"』『用意したセリフは完璧な"のに"』『わかってる"のに"』と逆接が連続して翻弄されている中にふっと展開が変わって順接の"から"が来るから聴き手は油断するのだ。

しかも、まだこれだけじゃない、この場面は歌の構成としては2番のBメロという事になるが、同じメロディーである1番のBメロの歌詞はこれである。

『構うのが面倒なら 早く教えて
 私だってそんなに暇じゃないんだから』

"なら"とか"だから"とか、聴き手がスムーズに納得できる構成がとられているのだ。他のパートで逆接を多用しているのとは異なり。つまり、1番のBメロを先に体験している聴き手は、2番のBメロに差し掛かった時にAメロのスムーズな(順当な)流れの残像にも惑わされて、更に油断するのである。

斯様にして、近距離と遠距離の両方からリスナーに心理的トラップを仕掛けて確実に油断させてから『わたしのこころかえして』と歌う為この箇所の鮮烈さがより増すのである。深慮遠望というか何というか、歌詞でここまで出来るかという感じだ。そしてこの歌には更にこの後にもう一山仕掛けを持って来ているのだがその話はまた次回という事で。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『見つけてもダメ』といきなり逆接と拒絶で幕を開けるのがMovin' on without youだが、そこからまさにこの歌は否定と逆接のオンパレードになる。即ち、英単語でいえばNoやnot、butやthoughばかり出てくるのだ。

『私だってそんなに暇じゃ"ない"んだから』
『知ら"ない"フリはもう出来"ない"』
『こんな思い出ばかりの二人じゃ"ない""のに"』

『切なくなるはずじゃ"なかった""のに"』

『用意したセリフは完璧"なのに"』
『また電波届か"ない"午前4時』
『分かってる"のに"結局寝不足』

『いいオンナ演じるのも楽じゃ"ない"よね』

『そんなこと言わ"なく""ても"わかってほしい"のに"』


…こんな具合である。

この曲を初めて聴いた時、その疾走感、スピード感に圧倒された。アップテンポではあるが、そこまで実際のBPMが高い曲ではない。寧ろ、ベースラインなどはゆったりしているとすらいえる程だ。

しかし、この曲はメロディーと歌詞の両面で強烈な切迫感を演出し、聴き手の心拍数を上げにかかる。その歌詞の上での工夫がこの逆接と否定の連発なのだ。

順接と肯定だらけの文章は聴き手に安心感を与える。次に言う事の予測がつくからだ。「好きだから」→「キスして」みたいな歌詞な。それを、このMovin' on without youでは悉く"裏切って"いく。その代表例が『見つけてもダメ』なのだが、聴き手は、逆接と否定の連続に心が休まる暇がない。「…え?」「…えぇっ!?」と何度も聞き返す羽目になる。だって、普通歌の歌詞で「切なくなる」の次に「はずじゃなかった」なんて続かないよ? 普通耳を疑うよ。これを繰り返す事でヒカルは聴き手の中に焦燥感を発生させ、そこに言葉とメロディーで切り込んでいって先手先手をとっていく。そのめまぐるしさとペース奪取が疾走感の正体である。

例えば、『わかってるのに結局寝不足』なんかも非常にスリリングな流れを生んでいる。真ん中の"のに"の効果たるや。詳しく書けば『わかってるのにもかかわらず結局寝不足』な風になるので、つまり逆接には否定("かかわらず")が入り込んでいる。Notという演算子は1を0に、0を1にするが、まさにこの歌は聴き手の心をあっちとこっちに引きずり回すように翻弄してくれる。この歌の主人公は兎も角、この歌の作者は確実に男を自分のペース振り回す悪い女、いや"いいオンナ"だとはいえるだろう。どちらが演技かはわからないが。

しかし、歌の後半ではそれだけにとどまらない更に高度な技をヒカルは見せつけてくれる。その話の続きはまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今一度Movin' on without youの1番Aメロの歌詞、デモ・バージョンと完成バージョンのそれぞれを載せておこう。

デモ版:
『夜中の3時am 枕元のPHS
 鳴るの待ってる バカみたいじゃない
 夜中の0時am 時計の鐘が鳴る
 ガラスのハイヒール見つけないでね』

完成版:
『夜中の3時am 枕元のPHS
 鳴るの待ってる バカみたいじゃない
 時計の鐘が鳴る おとぎ話みたいに
 ガラスのハイヒール 見つけてもダメ』


最後の一行が随分とインパクトを増しているのが感じ取られるかと思う。意味上の変化も確かにある。『見つけないでね』という懇願から『ダメ』という拒絶になったのだからそれがまずインパクト増大の原因だ。しかしそれ以上にその前の「ても」のフックが重要なのである。

『見つけないでね』の文としての大意は最初の5文字、『見つけない』でほぼ決まっている。最後の『でね』は確認の意味くらいしかない。しかし、『見つけてもダメ』は、"ても"で局面が変わる。文章を補足するとするならば「仮にあなたがガラスのハイヒールを見つけたとしても」だ。条件、或いは仮定としての性質を付与し、そこからの価値判断『ダメ』に繋げている。完成版は、デモ版に較べぐっと情報の密度が濃くなっている。

注目したいのは、見てわかる通り、尺に一切変化がない点だ。『みつけないでね』も『みつけてもだめ』も同じ7文字。その"制約"の中での工夫である。歌詞ならではの苦労だ。いや俳句や短歌、定型詩も同じだけど。

それを、せり上がるような上昇フレーズに載せて歌うから効果的だ。『見つけ』までは、リスナーも価値判断がどちらに転ぶかわからない。もしかしたら『見つけたらOK』なのかもしれない。そこを『てもダメ』にして真正面から否定・拒絶する事で大きなインパクトを得られるのである。ここの、歌詞の工夫と上昇フレーズの組み合わせによる"めまぐるしさ"の演出はMovin' on without youの真骨頂といえるだろう。


このインパクト抜群の名曲が発売になって今日で16年である。殆どヒカルの人生の半分前、という言い方が適当かはわからないが、こんな名曲がデビューしたてのガキンチョのセカンド・シングルだなんて、つくづくヒカルのライバルは『過去のヒカル』だなぁと痛感せざるを得ない。こんなハイクォリティーを前にしてこども扱い出来てしまう今のヒカルがどれだけスケールが大きいか、次の新曲で更に痛感させてくれる事だろう。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




歌で物語を表現する時、問題になるのはその"尺"である。3~5分の長さで日本語で歌うと、なかなかちゃんとした物語は語れない。故に、ひとつの場面に絞り、そこでの感情の動きを表現する、という感じになりがちである。

Movin' on without youはその点優れていた。1番の出だしが午前3時で、2番の出だしが午前4時。それぞれの時刻の感情を爆発的に表現しそれらを対比させる事で、この1時間の間の「感情の物語」と、破局するに至る2人の「これまでの物語」の両方を想像させる効果を持たせた。15歳とは思えぬ巧みさである。いや、何歳であってもここまで鮮やかな歌詞はなかなか書けない。

しかし、当然の事ながらこの鮮やかさを生み出す為にはかなりの分量の「創作上の試行錯誤」が必要となる。逆からいえば、そのような煩雑な試行錯誤を厭わない強い精神が優れた歌詞を生む。ならば、とFL15DXのDemo Versionを聴いてみよう。

様々な英語のコメントが興味深いが今回は的を絞る。1番Aメロの歌詞だ。デモでヒカルはこんな風に歌っている。


『夜中の3時am 枕元のPHS
 鳴るの待ってる バカみたいじゃない
 夜中の0時am 時計の鐘が鳴る
 ガラスのハイヒール見つけないでね』

これが、完成版だとこうなる。

『夜中の3時am 枕元のPHS
 鳴るの待ってる バカみたいじゃない
 時計の鐘が鳴る おとぎ話みたいに
 ガラスのハイヒール 見つけてもダメ』

完成版の方が明らかに切れ味が鋭く、鮮やかだ。

まず、“夜中の0時am”が削られている点に注目。先程触れたように、この歌は1番と2番の間に1時間経過しているというのが構成の肝だ。したがって、ここで0時amという時刻を歌ってしまうといったん時計が過去に戻ったように聞こえる為、1番の3時と2番の4時の対比がかりづらくなる。要は邪魔が入るのだ。

しかし、だからといってこの"夜中の0時"をただ削ってしまうと、次の「ガラスのハイヒール」が唐突に感じられてしまう。「時計の鐘が鳴る」だけでは弱いのだ。

それに、ここの"夜中の0時"は実際の時刻というより比喩である。恋の魔法が解けるタイム・リミット。シンデレラ・ストーリーから覚めるタイミングの喩えとして”0時“を使っているのだ。しかし、先述の通りこの歌では実際の午前3時と午前4時を取り上げているので具合が悪い。

そこでヒカルは大胆にも"夜中の0時am"を削り、更に大胆にも『時計の鐘が鳴る』という歌詞をまるまる一節分ずらして『おとぎ話みたいに』を放り込んでくるのだ。つまり、『時計の鐘』『おとぎ話』と『ガラスのハイヒール』の組み合わせによって"シンデレラのタイム・リミット"を表現する事に成功したのだ。

しかし、ここでの改変で最も鮮やかなのは…おっと時間が足りなくなった。この続きはまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Can You Keep A Secret?が発売になって今日で14年か。そんなに経つんだねぇ、という言い方は、歳をとった今ではあまりリアリティがなかったり。そりゃそれ位になるでしょ、みたいな感じである。

その後に続編とか劇場版とかがあって、そこでこの曲が、或いはヒカルが起用されなかったからか、今では「HEROといえば宇多田ヒカル」という空気は随分と薄れた気がする。私が続編を見なかった、というのも大きいかもしれないが。

実際、そこらへんは、例えばEVAやKingdom Heartsと違うところだ。意地悪な言い方をすれば、実写ドラマのファン…いや、テレビ視聴者は薄情なのだ、ともいえる。別に誰でもよかったのだ。勿論、実際の事情は知る由もない。本当は大激論の末宇多田の撤退が決まったのかもしれないし。そこはからん。しかし結果としてそれでGOサインが出たからそういうことなのだろう。これが例えば、木村拓哉を使うか使わないかではレベルの違う話になっていた。当たり前だけど。

テレビドラマの主題歌というのはそういうものだ。当たればあぶくのようにヒットが膨れ上がるが、後に残るのは薄く広がった膜である。皆が皆少しずつ「主題歌が宇多田でないのは残念だなぁ」とは思っているが、かといってそこにこだわって何かするかといえば「いや別に」なのだ。いい悪いでなく、そういうものなのだという話である。

しかし、だからといってCan You Keep A Secret?の人気が低いかというとそういう話ではなく、この曲自体が好きだというファンは多い。「HERO」と結びつけて語る層が薄いというだけで。

要するに、ドラマと歌がそこまでマッチしていなかったのである。それぞれが優れていて、それぞれが人気を博したが、同じ時間に同じ場所で出力していただけで、両者の相乗効果とかは別になかった。いや、宣伝上の効果は凄まじかったよ。宇多田ファンはこぞってこのドラマを観たし、毎週30%半ばの視聴者がこのドラマでヒカルの歌声を耳にした。だからこそのシングルチャート年間1位だ。ただ、作品上の相乗効果は特になかった、というだけである。

確かに、テレビシリーズ以降も伝説化したEVAや、次々と外伝等がリリースされるKHと比較するのは無意味かもしれない。ただ、それぞれの作品との繋がり具合というのは把握しておいてもいいんじゃないか。単純に、多くの人にとって、Can You Keep A Secret?という名曲との出会いを与えてくれた場所としてTVドラマ「HERO」は受け取られる。それ以上でもそろ以下でもなかった。あとは、この知名度を活かして、ヒカルがどのタイミングでこの歌をライブで歌うかである。In The Flesh 2010に参加してない人からすれば、もう何年聴いていない事になるのやら。次がいつになるかわからないが、楽しみに待っておく事にしよう。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




そういや昨日は翻訳蒟蒻の話ばかりで、肝心の本厄今昔の話をしていなかった。ヒカルって厄年だったんだな。気が付いていなかった。

年中行事すら眼中にないヒカルが厄年のような"ジンクス"を気にするのは奇異に映るかもしれないが、ヒカルは19歳の時にこんな事を言っている。女性の19歳というのは、昔なら二人目か三人目の子を産む時期で、母体にも何らかの危機が訪れる年齢だったのではないかと。正確な記述はMessage from Hikkiを参照されたし。

確かに、厄年というのに何か根拠があるかもしれないのなら、クリスマスも何も気にしないヒカルが気にするのも道理有りといえるだろう。実際、長年の経験の蓄積というのはバカに出来ない。昨今食の安全が叫ばれているが、本来食とは常に危険な行為であって、安全とは相反する。なぜならばそれは「体内に異物を取り込む」プロセスに他ならないからだ。それが吉と出るか凶と出るかは、ア・プリオリにはわからない。

なぜ現代のような"食の安全神話"が生まれたのかといえばそれは、今まで大量の犠牲者を出してきたからだ。大昔から人は何でも口にして腹を下したり神経を冒されたり死んだりしてきた。何が糧で何が毒かなんて食ってみなければわからないのだ。しかしヒトは学習する。あのキノコを食ってアイツは死んだ、だからあのキノコは毒だから食べないようにしよう、あの腐った豆を食べた奴は元気なままだ、もしかしてあれ食えるんじゃないの…気の遠くなるような歳月をかけてヒトは食の中で糧と毒の峻別を続けてきた。今我々が安心して食べている食材の数々はそういった死屍累々、無数の屍の上に成り立っているのだ。それが出来るのも、ヒトが世代を超えて経験を知識として共有し続けて蓄積してきたからである。

本来は危険である筈の食を「安全なものであるべきだ」と錯覚させるほどに、経験の蓄積とは侮り難い。例えば、風水なんかもそのひとつだろう。あれは理論が支離滅裂なだけで、「という訳で」の後に続く「ではこの方角に家具を起きましょう」みたいな"結論"の方は、耳を貸す価値がある。結論は経験の集積だからだ。しかし、理論の方はその結論をなんとか体系づけたいと後から無理やり付け加えたもので、そこから"純粋に"演繹して新しい"結論"を導き出す事は出来ない。しかし、経験の集積としての"結論"の集合には価値がある。

厄年も同じようなものだろう。厄払いなんてものは精神的儀式であって、信じている人には必要であり、信じていない人には不要なものだ。だが、その年齢が厄年と呼ばれている"事実"だけは、聞いておいた方がいい。女性の33歳(数え年)には、生物学的にか社会学的にかはわからないが、某かの変化や弊害が起こる確率の高い時期なのだろう。人によっては来ないかもしれないし、来たとしても早かったり遅かったりするかもしれない。しかし、そういった長年"情報の蓄積"が、「女性の33歳には何かある」と最終的に告げるのである。侮ってはいけない。

もっともこれも、たぶんそんなに大袈裟なものではないのだろう。そういった事を気にしない人には厄などあっても気付かない程度だったりするかもしれない。だがヒカルの場合、19歳の時に「うわぁ今年厄年だわ」と思わされる出来事があったのだろう。そういった場合はどうしたって信じてしまうのだ。そして、一旦信じてしまったらそれは常に心の端っこの方に引っかかったままになる。いちいち気にしてても仕方がないから、今からでも遅くはない、然るべき所に赴き厄払いしてもらったらいい。それで気分がスッキリするなら安いものだ。たとえその符合が間違ったものであっても、いやだからこそ精神的儀式は個々に意味をもつ。あ、私? 厄なんて気にとめてません。世の中には気にしなければただ通り過ぎていくものに溢れている。あなたの心に巣くう恐怖と不安の98%はメディアの作り上げた幻想に過ぎないのだから。そんな事気にする前に頭上からの鳥の糞を避け、道端に落ちてるガムを踏まないようにしないとな。それが本当の現実、なのだから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ZABADAKの、というか吉良知彦「夏秋冬春」を聴いてると、人間50代半ばになってからでも自身にとっての"最高傑作"を更新出来るもんなんだなぁ、と思う。

ヒカルはよく、年老いてからも(音楽の)仕事をしている自分の姿を想像できない、と言う。引退して欧州の片田舎で絵でも描いてるんじゃないかとかね。確かに、もう十分過ぎる程社会に貢献したし、それに見合った(と言えるのかどうか知らないが)資産も得ているのだから「どうぞご自由に」としか言いようがないのだが、一方で「今の時代に音楽家やってて50歳や60歳で引退と言われてもねぇ」というのもまた私の本音だ。

先の事はわからない、とは言うけれど、だったら「辞めてるか続けてるか全くわからない」とでも言っておけばよいものを、何故か辞めてる方向にヒカルが解釈しがちなのは、毎回「これが最後の作品になるのかも」と出し惜しみなく創作に打ち込んできた結果だろう。その時その時は"次回作"なんて想像もつかない。納期を過ぎればあらゆる苛立ちから解放されるという希望を胸に創作に励んで…おきながら毎度空っぽになった自分を充填してここまで来た訳だ。

それがこの度の人間活動期の突入によって潮目が変わる。ヒカルが"予定を立てた"のだ、「必ず戻ってくるから」と。確かに無期限ではあるのだが、"随分先"の話をしたというのには変わりがない。

これによって、ヒカルの中の"引退観"にも変化があった筈である。特に、20代から30代にかけて、少なくとも5年間表舞台に立たなかったという事実は人生設計を大きく左右する。同じ40年働くのでも40年ずっと働き続けるのと20年働いて5年休んで20年働くのでは全く違う。ヒカルの考え方や、何より"気分"が変わらない訳がない。

超一流のミュージシャンとしての"一人前"は、前も書いた通り、フェスティバルのヘッドライナーを務められる事だ(と私は思っている)。若手たちに皆に触れてもらう機会を与えてシーン自体のdriving forceとなれるかどうか。

宇多田ヒカルというブランドにフェスティバルのイメージは全く無い為、この基準を当てはめられる機会が実際に来るとは思えないが、15歳にしてトップミュージシャンとして現れた以上、何かそれに匹敵する所まで上り詰めてくれないかなと思う。枚数や金額で図抜ける事が出来ればそれに越した事はないが、何より、自分で『…これすげーんじゃねぇの?』と言える作品を作れるかどうか、その基準からすれば、32歳とかまだまだ若造であって、引退とかちゃんちゃらおかしい、そんな"気分"になれたらな、と思って今回は煽ってみました。でも実際楽しみだよねぇ、60歳のHikaruがどんな作品を作るかって。今より更に平均余命伸びてたらまだまだ老人とは呼べないかもしれないけれど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




その昔Utada本厄BBSなる掲示板を運営していた身としては今宵のツイートは感慨深…ん? ほんやく違い。 お前のやっていたのはUtada翻訳BBSだろうって? そうだっけかね。

結局あの掲示板はある日突然KIDD BBSシステム全体が閉鎖された事で終わりを告げた。前フリも何もナシだったからバックアップもとってなかったっちゅーねん。まぁ、翻訳自体はなんとかかき集めさせて貰えれば大体は読めるんですが。まとめ作業面倒だから今んとこやる予定なし。

あの頃は「そんなに英語って障壁が高かったのか!」と驚く事頻りだった。日本の洋楽ファンというのは英語がわかるから洋楽を聴いているのではない。歌詞の意味なんてわからなくても「なんか知んないけどカッコイイじゃん」の一言で済ませて楽しんでしまえる"いい加減"な人種でしかない。私もそのうちの1人だったので、邦楽ファンの"生真面目さ"にはカルチャーショックを受けたものだ。「歌詞の意味がわからないと楽しめない」とか、わし日本語曲聴いてても歌詞なんか滅多に気にせぇへんっちゅうねん。

そんだもんだから、Utadaのデビュー頃はやたらと翻訳に感謝されていた記憶がある。宇多田ヒカルのファンだからUtadaの事が知りたい、でも英語がわからない、という人にとってメッセージやインタビューの翻訳は随分と重宝だった、らしい。一応それがこちらの狙いだったからいいんだけど、あの世代のヒカチュウにとっては「i_(AI-Shadow)」という名は大抵"翻訳の人"のイメージだったんじゃないか。「俺って英語喋れないんだけどなぁ…」って何回も呟いたんだが、効果は無かった。

次どうしよ。

Hikaruが国際展開を始めたら、普通に考えればオフィシャルで翻訳作業をすべきだとは思う。この間ちょうどUtadaHikaruVEVOについて公式コメントがあり、「モバイルでも観れる環境が整いました」という事だが、それだけが狙いだと本当に言えるかどうかは今後の流れ次第だろう。

気が向いたらやるか。他にもたくさんやる人が居て、読者が突き付け合わせられるのがいいんだが。同じコンサートを観てもライブレポートが千差万別になるように、同じ英文を読んでもその訳し方は十人十色である。同じ英文に対して複数の翻訳がある事が望ましい。そんな風に考えていたからBBS形式にしたのに結局9割方俺だったからなぁ。1割の人たちには本当に感謝でした。


今は機械翻訳も発達したので、そこまで力まなくてもいいような気もする。Google翻訳よりExcite翻訳の方が英和訳和英訳ともに精度が高いかな。でもまぁ、どことなくぎこちないよね、まだ。私としてはいっぺんに英単語の訳が並ぶのでそれも重宝。

昨年のHikaru結婚の際は、イタリア語記事を英語に機械翻訳して読んでいた。イタリア語をそのまま日本語に訳すより、一旦英語に翻訳してからそこから和訳する方が精度が高い。なんだか直観に反するが、これも重宝したなぁ…


……厄年の話やなかったんか(笑)。まぁ、今後の事は、またその時が来たら考えるよ。今はまだ、ね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


(TOT)  


TOTが泣き顔に見えるだなんて今更過ぎだが、寧ろサッカー観戦してますよとでも言いたかったんだろうか。イタリアというお国柄なら家族全員サッカーファンという事もありえるし。

もっとも、だからといってHikaruにたとえばサッカー・ソングを歌って欲しいかというと一瞬躊躇するねぇ。全然違うテーマで書かれた曲が、たとえば"We Will Rock You"みたいな愛され方をするならアリな気はするけれど。元々は特定のチームを応援していた訳でもなし。

フランチャイズというのはその土地に長らく住んでいる事が重要だ。関西人が阪神ファンだらけなのは、そもそも生まれた時から"阪神タイガースを応援するに決まっている"環境で育つからだ。洗脳というのは恐ろしい。

ながらくボヘミアン/コスモポリタンとして生きてきたHikaruからすれば、ホームとかフランチャイズとかいう概念はいまいち馴染み難いに違いない。たまたま住所が近いだけで、どうして私がそのチームを応援しなきゃいけないの?という。そりゃまぁそうなんだが。

今は、かなりどこかに定住しているんだろうか。定住地は複数あってもよい。たとえばロンドンならロンドンのここにもう何年も居を構えている、という程度で十分だ。季節毎にニューヨーク、東京、ロンドン、イタリアを移り住んだっていい。家に帰ってきた時に「ホームだ」と実感出来る事が重要なのだ。

「"家"ってこういう概念なのか」と今回の結婚で実感出来ているとすると、それこそ歌詞の内容に随分と変化を齎す気がする。一方で、一般人という事で、極力歌詞のテーマとして取り上げる事はせず、寧ろタブー視してくるかもしれない。しかし例えば、Kiss&Cryのような歌詞は書きにくくなるかもしれない。当初はお姉ちゃんにリストカットさせる予定だったあの頃の"今時の家族像"の描き方。仮に幸せいっぱいの人が書くとしたらよっぽど上手くやらないとイヤミったらしく響いてしまう。いやまぁ毎度「よっぽどうまくやる」のが宇多田ヒカルではありますが。

兎も角、画撮の一枚でこんな事をファンに勘ぐられるだなんて鬱陶しい事この上ないだろうが、久々のツイートがインスタグラムで今更感満載の内容だったので、えぇっと、すいませんでした(笑)。まぁツイートがあると嬉しいよねそりゃ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日本のフォークソングは歌詞のバリエーションが広い、というのはそれこそさだまさしの歌を何曲か聴けば明らかだろう。寧ろ、何故ああいったユーモラスな多様性を捨てて世の中ラブソングと応援歌ばかりになってしまったのやら。いやそれも極端だけれども。

宇多田ヒカルは日本のPopsの王道のひとつなので、なんだかんだでメインはラブソングだ。と言っても恋愛を比喩とした歌も沢山あるのだが。それが更に多様になる可能性として、どんな方向が考えられるか。


全く無駄な余談なんだが、既婚者がラブソングを歌ったり聴いたりってどんな感じなんだろう。まぁ、聴く方はなんとなくわかるっちゃわかる。結婚してからも恋愛ドラマを見る人は幾らでも居るのだから、同じ調子で歌も聴けばよい。歌う方はというと、"演技"という事になるだろうか。歌の登場人物になりきって歌えばいい。まぁそんなものか。

桑田佳祐って凄いなぁと思う。おじいちゃんと呼ばれかねない年齢になっても一夏の恋だのアバンチュールだのという歌詞の新曲を出して歌う。それが芸風なのだし、別に作詞者は総て空想で歌詞を書いてもよいのだから、期待に応えるのはよいことだ。コナン・ドイルが現実に殺人事件を起こしていた必要もそれを解決した経験も、なくていいのである。

それにしても、と思う。歌を聴く人は皆恋物語をそんなに聴きたいのかね。昔から、既婚者が流行歌を聴かなくなるのは、忙しくなるからとかお金がいりようになるからといった理由とは別に、既婚者にとって共感できる歌詞が少ないからなんじゃないかというのもあるのではと思っている。そりゃあ、フィクションを楽しむ態度なら年齢とか関係ないのだけど、結婚してこどもを持って初めて「わかるわかる」と頷ける歌とか、沢山あってもよいような気がするんだわ。

Hikaruもまた既婚者に戻り(っていう表現で合ってる?)、新たな歌詞世界を説得的に歌えるチャンスを得たと思っている。一回目の時は新妻第一弾ソングとして1ヶ月で別れる歌を歌ってしまったが、今度はどうなるか。

結婚前だが、桜流しの歌詞は本当に素晴らしかった。ああいうことである。『私たちの続きの足音』なんて歌ってしまうのは、次世代に希望を託すまさに大人の態度。嵐の女神もよかったねぇ。『お母さんに会いたい』という一言を素直に口に出すには、小さな私を迎えに行ける程に自分が大人になった時。これらの歌は確かに、若い世代より子を持つ親の世代により響くだろう。と同時に瑞々しく青い恋心をGoodbye Happinessで歌ったり、超王道のラブソングとしてCan't Wait 'Til Christmasを歌ったり、いや本当に多彩である。

ここから更に広げていきたい。昔のフォークソングを紐解けば、子を都会にやるとか娘を嫁に出すとか、或いは新しい家族が出来た話とか色々あった。ああいう庶民性の高い歌詞世界はお茶の間には受けてもCDを買う世代には受けなかった。だから廃れたのだろうが、ああいうノリを90年代のJ-pop以降の流れの中にもう一度組み込めないものだろうか。前回も指摘した通り、日本語で歌っていくとどうしても世界観やメッセージ性がフォーク的になってくる。その傾向をあっさり認めてフォーク回帰してしまったらいいんじゃないかと。

さしあたってHikaruに歌ってみて欲しいのは「新しいお母さん」についてだ。一昨年実母を亡くし、昨年結婚して義母を得た。彼女との関係性はどうなのだろう。それをそのまま歌えば単なる昼ドラ的な嫁姑問題にしかならないが、そこをスタイリッシュにPopsとして纏められたら多くの共感を得られるんじゃないかと思う。歌詞は所詮虚構なのだから実体験なんて伴ってなくてもいいのだが、今しか歌えない歌詞があるのなら、書いてしまうのも悪くない。ちょっぴり期待してしまう私なのでした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルが10年ほど前にさだまさしに注目していたのは、彼がまるで喋るような自然さで日本語の歌を歌っていたからだろう。実際、フォークギターを抱えながら軽妙なトークで笑いをとりつつそのままの流れで歌に入っていく巧みさは誰にでも真似出来るものはない。「15歳の小娘が『いつお泊まり?』ってどういう教育をしてるんだ、こいつの親の顔が見てみたい、と思ったら藤圭子だった」みたいな鉄板のネタの名調子からそのままメロディーが流れてくる。日本語が喋りとメロディーを仲介しているともいえる。

奇しくも、でも何でもなく、その頃のヒカルはギターを抱えてBe My Lastを作詞作曲、ギターの弾き語りにまで挑戦していた。EXODUSから帰ってきて久々の日本語曲という事で取り分け歌の中の日本語の位置付けについて考える時期だったのだろう。さだの言葉と音符の選び方と合わせ方は大いに参考になった筈である。彼も井上陽水や藤圭子同様、70年代に年間トップクラスの特大ヒットを飛ばした天才で(普段の親しみやすさからすると奇妙な形容だけれどな)、やっぱりヒカルは似た境遇というか共鳴できる人間に敏感である。

繰り返し書いてきた事だが、日本語のポップスは基本的にフォーク・ソングになっていく。というか、日本語ポップスの基本はフォークである。パンクをやってもラップ/ヒップホップをやってもロックをやってもどれもいつの間にかフォークになっていく。パンクバンドが海援隊の曲をカバーしたり、ラップも結局「お母さん育ててくれてありがとう」とか歌ってたし(ギャングスタラップとの彼我の差ときたら…)、GLAYの歌詞なんか完全にフォークである。つまり、サウンドは極力抑え、日本語の響きを中心に据えるのがいちばんしっくりくるのだ。ギター一本の弾き語りで済んでしまうというか、煩わしい音の数々は要らないのである。

その点を踏まえると、ヒカルの場合どちらかといえばギターで作曲したBe My Lastより、珍しく歌詞が先に出来てあとからメロディーをつけたピアノ作曲の誰かの願いが叶うころの方が更によりフォーク的であったといえるだろう。日本語の響きを中心にしてシンプルにピアノの伴奏だけでサウンドを構成する。確かに、いつものヒカルのバラードとは異なる静かなメッセージ性が感じられた。

あれから11年経つが、またこういったフォーク的アプローチの曲が聴ける事はあるのだろうか。まず、日本語の歌を作るかどうかという所から始めなければいけないし、英語のレパートリーの中でもAbout Meのようなフォーク的アプローチの歌もある。Hikaruのもつスペクトルの広さからすると数あるバリエーションの中の一つでしかないかもしれないし、国際的展開を望む/臨むのであればあまり賢明なアプローチとはいえない(日本語がわからないと何が面白いのかさっぱりわからない)けれど、アルバムの中に一曲くらいピアノかギターでの弾き語り曲があったら嬉しいなって思ったりもするのであった。ライブも楽しみになるし。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この日記は、世の中に渦巻くきな臭い話題から一旦離れて宇多田ヒカルの話を聞けるという事で立ち寄る人も少なくない筈だ。事実、私自身からしてそうだし。「今日は誰ともヒカルの話をしなかったな…」と少し寂しくなった貴方がふぃっと一息つける場所でありたい。私もここで深呼吸している。

一連の話題に関して結論はいつも一定している。「国や言語や人種を超えて互いに文化を育み交流をはかろう」である。ああいった話題に乗る事自体向こうの思う壺なのだから。「戦争反対!」と叫んでいる時点で相手のペースだ。賛成派と反対派に分断して敵対しあう構図を作っているんだものね。我々のやるべきは徹頭徹尾「平和の魅力」を振り撒く事だ。戦争をしたがっている人たちの意見を、それでも尊重し、闇雲に否定せず、ただひたすらに「僕らの興味のある事はこちら」と言い続ける。何故侵略戦争なんかするかというと、他にそれよりしたい事がないからだ。彼らも、他にしたい事があればそちらを選ぶ。確かに、何の効き目もないかもしれないが、戦争反対と言って反戦活動して効き目があるかと言われると唸ってしまうのだ。寧ろ火に油を注いでいるんじゃないかという気さえする。相手の土俵に上がってはいけない。

しかし、全くの無知無防備だと本当に危ない。ここがいちばん難しい。ころっと騙される。「あの国は悪いヤツで今度この国に攻めてくるんだ」と言われて「そうなのか!」と鵜呑みにしてしまうような事があったら…いや、別にあってもいいのか。ただ頑なに「平和に行こう」と言い続けるだけじゃないか。あ、そんなもんだね。歌の話をしようか。


「歌」というのは不思議なもので、言葉と音楽(メロディー・リズム・ハーモニー)の組み合わせで出来ている。なので、時々「果たして歌は音楽と言えるのだろうか?」と疑問に思う事がある。

音楽は、数少ない、"突然やってきた宇宙人に我々の文化をいち早く知ってもらうのに最も適した営み"である。漫画を読んでもらおうにも、扱われている言語、コマ割、漫符、設定や眼球のとんでもない巨大さなど事前に説明すべき約束事が多すぎる。演劇や映画もそう。絵画も「何が描かれているか」についての予備知識が必要だ。音楽にはそれがない。

他には、花火とか舞踏とかだろうか。直接的に、その美しさで感動や感情を伝えられる。特に器楽演奏は、音波を検知する器官さえ備えていればとても直接的である。

言葉とは約束事の塊だ。いや、言葉とは約束である、と言い切ろう。事前の合意、予備知識、それそのものである。言葉と音楽は、約束を隔ててまるで反対側にあるものだ。

歌は、それを繋ぎ合わせてしまう。融合させてしまう。不思議だ。矛盾している。しかしもっと不思議なのは、我々は歌を歌っている時、歌を聴いている時、歌を繋ぎ合わせや融合だと思っていない事だ。歌を言葉とメロディーに分解させたりしやしない。歌は歌なのだ。

ヒカルの作詞術は、そう考えると、とても"不自然"かもしれない。殆どの曲はメロディーが先行していて、そこに歌詞を載せていく。私達は、出来上がった歌を聴いて、それが歌である事を疑わない。特に、「あぁ、これは元々あったメロディーに歌詞を乗せたものだな」とは思わない。誰とは言わないが、何の技巧も工夫もなくクラシックのメロディーに日本語を乗せている歌を聴くとヒカルの作詞が如何に巧まれているか改めて痛感する。

この、"自然な不自然"、いや"不自然な自然"と言った方が適切か、それを聴く度、「必ず答がある筈だ」というヒカルの作詞家としての信念或いは直感は素晴らしいなと痛感する。歌がただただ歌になればなるほど、その自然さの裏に隠された努力の集積に敬意を表したくなる。

しかし、不自然な自然或いは作られた自然は天然の自然にはかなわない。最初からただの歌として生まれた"ぼくはくま"のように、ヒカルにまた「生まれた時からメロディーと歌詞が分かたれず一緒だった」つまり「生まれた時から歌だった」という歌を作れたとすれば、それはヒカルにとって新たな最高傑作になるかもしれない。確かにそれは、降ってくるのを待つしかないが、真の努力をした人の所にきっと降ってくる筈だ、と珍しくロマンティックな事を言って今夜は締め括るとしよう。あーやっと調子が戻ってきたかな?

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




もう一言付言しておくと、国と国を「敵」同士でみる事自体、虚構・フィクションである。世の中の誰かと誰かの利害が対立する事はあっても、国という機関なり概念を敵対させる為には、その個人同士の対立構造を繰り入れていく必要がある。こどもの喧嘩が親同士の喧嘩になって、みたいな感じで。つまり、「仮想敵」という言い方自体誤解である。最初から敵とは仮想の存在なのだから。何らかの"恣意的な設定"をして初めて軍は動く。システムの都合の話である。

「もし敵が攻めてきたらどうするんだ」という問題設定自体、既に仮想である。だが、"不安を煽る"という手法が、特にこの国で如何に効果的なのかはこの20年沢山見せられてきた。本当にこれでもかという位に、居もしない"敵"、ありもしない"脅威"に怯える発言の数々をみてきた。どこまで本音なのかはしらないが、嘘だろうとそういう発言が流通している時点で、空気はそれを歓迎しているのだ。皆さんもう一度ワンピースの魚人島編、ホーディ・ジョーンズのエピソードを読み返しておいてくらはい。ほんとあの大長編は今や我々の世代のバイブル代わりだな。といっても主役が海賊で無法者なので、権威を嫌っているのですが。


ヒカルの"平和への願い"がどのようなものか、熊害問題に対する態度は試金石となりえる。我々は熊が実際にどんな生態の生物なのか知らない。この中に熊と1日一緒に過ごした事のある人はどれくらい居るだろう。居ても1人2人だろう。殆どがただの伝聞で知っているだけだ。一方で、様々な「熊による人の虐殺」のニュースの信憑性を疑うのも難しい。我々は不安定な状況の中に居る。果たして「熊」は人間の味方だろうか、敵だろうか。

この構図は、人間対人間、国対国のそれとさして変わらない。そしていつもの"カテゴリー・エラー"である。熊といっても、一頭々々別の個体である。なかには人を積極的に襲う個体もあるかもわからないし、一切人に近付かない熊も居るかもしれない。ひとくくりに「熊」と呼んで果たして問題は解決するのか。まぁその前に熊にもヒグマとかツキノワグマとか種類があるんだけどそこはそそくさと省略。

犬猫を飼っている人は、自分の飼っている彼らと"心が通じ合っている"と感じる機会が無いと言い切るのは難しい。幼少の頃から教育すれば、ヒトでなくても意志の疎通らしきものは育まれるのだ。熊にもそういった可能性があるかどうか、私は知らない。それに、その可能性があるとしても現実の野生の個体への影響は薄いだろう。ヒカルが、どこらへんに狙いを定めている(いた)か知る由もないが、現実を目の前にして自分が何をどうしたかったのか、ある程度見極めがついていたのならいいんだけどな。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




前回の最後の最後に結局「平和」と口走ってしまったので、今回は「平和主義」について思うところを。堰を切ろう。

昨今このイディオムは誤解されているように思う。いや、ずっと誤解されてきたと言うべきか。非常に単純に、暴力(…という単語は"言葉の暴力"という風にも使うので実地上必ずしもそうではないが、ここでは"物理的実力行使"の意味で用いる)或いは軍事行動の実際的発動を拒む思想なのだが。

それが何故か今は平和主義と言ったら「無条件降伏すること」みたいな話になっている。自国が他国に攻められて軍事的抵抗をしないのであれば降伏以外道はないだろうと。2つのステップに誤解がある。

まず、日本国憲法第9条にある通り、といえば通りがいいだろう、他国を侵略しないという主張。これには多くの日本人が賛同している。いや賛成反対はどちらでもよくて、それだけ知名度が高く馴染みのある思想・方針だから説明を省略しますよという事だ。

で、ここに一つ目の誤解があるのだが、そうやって日本国憲法に沿って思想が有名になっているからかなんなのか、侵略行為について自国と他国という風に分けて考えている。平和主義に国境は関係がない。自国が侵略行為をする事に反対している以上、どの国の侵略行為にも反対である。無条件降伏をしている時点で、相手国に侵略行為を許している。それは平和主義の望む事ではない。無条件降伏は平和主義の思想とは異なる。

これは、日本人ならではの誤解なのかもしれない。実際に第9条が存在して、不戦を前面に押し出している(ここが大事だ)為、侵略と被侵略についてどうしても現実の問題として捉えてしまう。今は主義主張のありようを述べているので、これらの記述は思考実験だ。つまり、日本とか実際の国の話ではなく、A国にB国に…という話なのだ。今はね。

そしてここに、もう一つの誤解がある。自国の姿勢について議論はしても他国の姿勢については議論しない。これは本当に意味がわからない(が、多分"日本語"という障壁が強力に機能しているのではないかという推測は立つ)。なぜか日本が「侵略されたらどうするか」という話ばかり日本人はしている。実務にあたる政治家たちなら兎も角、一般の庶民の方がそうなっているのは一体何なのか。

「声の届かなさ具合」は、自国の政府に対しても他国の政府に対しても殆ど同じである。確かに、「声の届き易さ」は、自国政府の方が他国政府よりも何千、いや何万倍も届き易いが、届き難さはほぼ同程度だ。

何を言ってるかわからない、と言われそうなので数字で例示してみよう。自国政府へ自分の声が届く可能性が0.001%だとして(これでも大きすぎるけど)、他国政府へのそれが0.0000001%だとしよう。確かに、自国政府には1万倍声が届き易い。しかし届かない可能性は前者が99.999%、後者が99.9999999%。これは普通「ほぼ同じ」と呼ばれる数字である。

何が言いたいかというと、平和主義者が政治的方針を主張する場合、自国政府が相手だろうが他国政府が相手だろうが犯罪集団が相手だろうが、言う事は変わらないのだ。「暴力を振るうな」。そんだけである。

私が現実に国の政治家なら発言は変わるだろう。外交専門なら尚更だ。しかし私は一般庶民であり、吹けば飛ぶような選挙権一票分と、あってもほぼ仕方のない被選挙権位しか持ち合わせていない。そんな立場の人間からすれば、国云々を前に全員に向かって「武力行使をするな。」と主義主張を表明するのは極めて合理的である。私が軍を動かしたり止めたりできる訳じゃないんだから。そして、殆どの庶民は私のような立場の人間だと思う。そんな人間が「他国に侵略されたらどうすべきか」について議論するのは非合理的である。シンプルに、地球人全員に対して「戦争反対」と主張すればいい。それが平和主義者のやる事だ。届かなさは変わらないのだから。もっとも、貴方が平和主義者で な い のならこの限りではありませんが。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルの言動や歌詞に熊崇拝の影響がどれくらい出てくるかが気になっている。

ひらがなの「くま」にこだわっているうちはまだよかったのだが、漢字の「熊」の方は実在する哺乳類であり、こちらの方を気に掛けるとなると問題は一変してくる。ヒトと野生動物との共存の在り方についての実際的な議論が必要になってくるからだ。

ヒカルのバランス感覚からいって、単なる熊保護に向かう訳ではない事は察せられるし、それは幾つかのツイートからも窺い知れる。

熊害、熊によるヒト生存圏への侵食は深刻な、しかし規模としては小さな問題である。今のところ、国際問題になどはなっていない、という意味において、だ。だとしても深刻かつ微妙な問題点を幾つも孕んでいて、おいそれと解決策はこうだとは言えない状況である。

こちらとしては、前に論じたように、ここにきてヒカルが「熊」という、個体ではない、ある種の生物の集合について言及している点が気になっている。ヒトが1人々々多様なように、熊も1熊々々多様であって、中にはヒトに対して攻撃的な熊も居るかもしれないし、ヒトを恐れて一切接触しないようにしてる熊も居るかもしれない。熊は社会性の高い動物ではないようだが、熊社会も一枚岩ではないのである。

熊による"侵略"行為をどう捉えるか。その原因をヒトによる森林開発の結果だという人も居るし、気候変化の結果だという人も居る。情報が伝わってきていなかっただけで、実際の状況は昔とさほど変わっていないのかもしれない。部外者な自分にはわからない。しかしそもそも、何をもってして問題解決と見做すのかのコンセンサスが取れていないようにはみえる。

ヒカルの「問題意識のアプローチ」の仕方は明らかに熊側からであり、思考も元々は熊中心である。少なくとも入り口は、「野生動物によるヒトへの被害がある。」から「野生動物のうちには熊も含まれる。」へという流れではなく、熊に関する情報に関してアンテナを張っていたら、熊害問題が目に入った、という順序だっただろうと推察される。熊に注目していたら、ヒトとの軋轢が飛び込んできた、といったところだろうか。

もっとも、入り口の在り方はさして問題ではない。そこからどんな考察を積み重ね、問題設定をし、何に向かって動き始めるかが問題なのだ。そして、その点に関してはヒカルはあまり語っていない。幾つか特定の団体の名前を挙げていたようにも思うが、そこから話が進んだかどうか、我々は知らない。結局我々の知っている地点で止まったのか、そこから数年間何か進展があったのか。人間活動中の事なので詮索をする気はないが、復帰後の言動への、水面下にしろ表面上にしろ、何か影響はないのだろうかとふと気になった次第である。「くま」だけなら、平和だったのだけれどね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »