無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そういや昨日は翻訳蒟蒻の話ばかりで、肝心の本厄今昔の話をしていなかった。ヒカルって厄年だったんだな。気が付いていなかった。

年中行事すら眼中にないヒカルが厄年のような"ジンクス"を気にするのは奇異に映るかもしれないが、ヒカルは19歳の時にこんな事を言っている。女性の19歳というのは、昔なら二人目か三人目の子を産む時期で、母体にも何らかの危機が訪れる年齢だったのではないかと。正確な記述はMessage from Hikkiを参照されたし。

確かに、厄年というのに何か根拠があるかもしれないのなら、クリスマスも何も気にしないヒカルが気にするのも道理有りといえるだろう。実際、長年の経験の蓄積というのはバカに出来ない。昨今食の安全が叫ばれているが、本来食とは常に危険な行為であって、安全とは相反する。なぜならばそれは「体内に異物を取り込む」プロセスに他ならないからだ。それが吉と出るか凶と出るかは、ア・プリオリにはわからない。

なぜ現代のような"食の安全神話"が生まれたのかといえばそれは、今まで大量の犠牲者を出してきたからだ。大昔から人は何でも口にして腹を下したり神経を冒されたり死んだりしてきた。何が糧で何が毒かなんて食ってみなければわからないのだ。しかしヒトは学習する。あのキノコを食ってアイツは死んだ、だからあのキノコは毒だから食べないようにしよう、あの腐った豆を食べた奴は元気なままだ、もしかしてあれ食えるんじゃないの…気の遠くなるような歳月をかけてヒトは食の中で糧と毒の峻別を続けてきた。今我々が安心して食べている食材の数々はそういった死屍累々、無数の屍の上に成り立っているのだ。それが出来るのも、ヒトが世代を超えて経験を知識として共有し続けて蓄積してきたからである。

本来は危険である筈の食を「安全なものであるべきだ」と錯覚させるほどに、経験の蓄積とは侮り難い。例えば、風水なんかもそのひとつだろう。あれは理論が支離滅裂なだけで、「という訳で」の後に続く「ではこの方角に家具を起きましょう」みたいな"結論"の方は、耳を貸す価値がある。結論は経験の集積だからだ。しかし、理論の方はその結論をなんとか体系づけたいと後から無理やり付け加えたもので、そこから"純粋に"演繹して新しい"結論"を導き出す事は出来ない。しかし、経験の集積としての"結論"の集合には価値がある。

厄年も同じようなものだろう。厄払いなんてものは精神的儀式であって、信じている人には必要であり、信じていない人には不要なものだ。だが、その年齢が厄年と呼ばれている"事実"だけは、聞いておいた方がいい。女性の33歳(数え年)には、生物学的にか社会学的にかはわからないが、某かの変化や弊害が起こる確率の高い時期なのだろう。人によっては来ないかもしれないし、来たとしても早かったり遅かったりするかもしれない。しかし、そういった長年"情報の蓄積"が、「女性の33歳には何かある」と最終的に告げるのである。侮ってはいけない。

もっともこれも、たぶんそんなに大袈裟なものではないのだろう。そういった事を気にしない人には厄などあっても気付かない程度だったりするかもしれない。だがヒカルの場合、19歳の時に「うわぁ今年厄年だわ」と思わされる出来事があったのだろう。そういった場合はどうしたって信じてしまうのだ。そして、一旦信じてしまったらそれは常に心の端っこの方に引っかかったままになる。いちいち気にしてても仕方がないから、今からでも遅くはない、然るべき所に赴き厄払いしてもらったらいい。それで気分がスッキリするなら安いものだ。たとえその符合が間違ったものであっても、いやだからこそ精神的儀式は個々に意味をもつ。あ、私? 厄なんて気にとめてません。世の中には気にしなければただ通り過ぎていくものに溢れている。あなたの心に巣くう恐怖と不安の98%はメディアの作り上げた幻想に過ぎないのだから。そんな事気にする前に頭上からの鳥の糞を避け、道端に落ちてるガムを踏まないようにしないとな。それが本当の現実、なのだから。

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ZABADAKの、というか吉良知彦「夏秋冬春」を聴いてると、人間50代半ばになってからでも自身にとっての"最高傑作"を更新出来るもんなんだなぁ、と思う。

ヒカルはよく、年老いてからも(音楽の)仕事をしている自分の姿を想像できない、と言う。引退して欧州の片田舎で絵でも描いてるんじゃないかとかね。確かに、もう十分過ぎる程社会に貢献したし、それに見合った(と言えるのかどうか知らないが)資産も得ているのだから「どうぞご自由に」としか言いようがないのだが、一方で「今の時代に音楽家やってて50歳や60歳で引退と言われてもねぇ」というのもまた私の本音だ。

先の事はわからない、とは言うけれど、だったら「辞めてるか続けてるか全くわからない」とでも言っておけばよいものを、何故か辞めてる方向にヒカルが解釈しがちなのは、毎回「これが最後の作品になるのかも」と出し惜しみなく創作に打ち込んできた結果だろう。その時その時は"次回作"なんて想像もつかない。納期を過ぎればあらゆる苛立ちから解放されるという希望を胸に創作に励んで…おきながら毎度空っぽになった自分を充填してここまで来た訳だ。

それがこの度の人間活動期の突入によって潮目が変わる。ヒカルが"予定を立てた"のだ、「必ず戻ってくるから」と。確かに無期限ではあるのだが、"随分先"の話をしたというのには変わりがない。

これによって、ヒカルの中の"引退観"にも変化があった筈である。特に、20代から30代にかけて、少なくとも5年間表舞台に立たなかったという事実は人生設計を大きく左右する。同じ40年働くのでも40年ずっと働き続けるのと20年働いて5年休んで20年働くのでは全く違う。ヒカルの考え方や、何より"気分"が変わらない訳がない。

超一流のミュージシャンとしての"一人前"は、前も書いた通り、フェスティバルのヘッドライナーを務められる事だ(と私は思っている)。若手たちに皆に触れてもらう機会を与えてシーン自体のdriving forceとなれるかどうか。

宇多田ヒカルというブランドにフェスティバルのイメージは全く無い為、この基準を当てはめられる機会が実際に来るとは思えないが、15歳にしてトップミュージシャンとして現れた以上、何かそれに匹敵する所まで上り詰めてくれないかなと思う。枚数や金額で図抜ける事が出来ればそれに越した事はないが、何より、自分で『…これすげーんじゃねぇの?』と言える作品を作れるかどうか、その基準からすれば、32歳とかまだまだ若造であって、引退とかちゃんちゃらおかしい、そんな"気分"になれたらな、と思って今回は煽ってみました。でも実際楽しみだよねぇ、60歳のHikaruがどんな作品を作るかって。今より更に平均余命伸びてたらまだまだ老人とは呼べないかもしれないけれど。

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