無意識日記
宇多田光 word:i_
 



日本のフォークソングは歌詞のバリエーションが広い、というのはそれこそさだまさしの歌を何曲か聴けば明らかだろう。寧ろ、何故ああいったユーモラスな多様性を捨てて世の中ラブソングと応援歌ばかりになってしまったのやら。いやそれも極端だけれども。

宇多田ヒカルは日本のPopsの王道のひとつなので、なんだかんだでメインはラブソングだ。と言っても恋愛を比喩とした歌も沢山あるのだが。それが更に多様になる可能性として、どんな方向が考えられるか。


全く無駄な余談なんだが、既婚者がラブソングを歌ったり聴いたりってどんな感じなんだろう。まぁ、聴く方はなんとなくわかるっちゃわかる。結婚してからも恋愛ドラマを見る人は幾らでも居るのだから、同じ調子で歌も聴けばよい。歌う方はというと、"演技"という事になるだろうか。歌の登場人物になりきって歌えばいい。まぁそんなものか。

桑田佳祐って凄いなぁと思う。おじいちゃんと呼ばれかねない年齢になっても一夏の恋だのアバンチュールだのという歌詞の新曲を出して歌う。それが芸風なのだし、別に作詞者は総て空想で歌詞を書いてもよいのだから、期待に応えるのはよいことだ。コナン・ドイルが現実に殺人事件を起こしていた必要もそれを解決した経験も、なくていいのである。

それにしても、と思う。歌を聴く人は皆恋物語をそんなに聴きたいのかね。昔から、既婚者が流行歌を聴かなくなるのは、忙しくなるからとかお金がいりようになるからといった理由とは別に、既婚者にとって共感できる歌詞が少ないからなんじゃないかというのもあるのではと思っている。そりゃあ、フィクションを楽しむ態度なら年齢とか関係ないのだけど、結婚してこどもを持って初めて「わかるわかる」と頷ける歌とか、沢山あってもよいような気がするんだわ。

Hikaruもまた既婚者に戻り(っていう表現で合ってる?)、新たな歌詞世界を説得的に歌えるチャンスを得たと思っている。一回目の時は新妻第一弾ソングとして1ヶ月で別れる歌を歌ってしまったが、今度はどうなるか。

結婚前だが、桜流しの歌詞は本当に素晴らしかった。ああいうことである。『私たちの続きの足音』なんて歌ってしまうのは、次世代に希望を託すまさに大人の態度。嵐の女神もよかったねぇ。『お母さんに会いたい』という一言を素直に口に出すには、小さな私を迎えに行ける程に自分が大人になった時。これらの歌は確かに、若い世代より子を持つ親の世代により響くだろう。と同時に瑞々しく青い恋心をGoodbye Happinessで歌ったり、超王道のラブソングとしてCan't Wait 'Til Christmasを歌ったり、いや本当に多彩である。

ここから更に広げていきたい。昔のフォークソングを紐解けば、子を都会にやるとか娘を嫁に出すとか、或いは新しい家族が出来た話とか色々あった。ああいう庶民性の高い歌詞世界はお茶の間には受けてもCDを買う世代には受けなかった。だから廃れたのだろうが、ああいうノリを90年代のJ-pop以降の流れの中にもう一度組み込めないものだろうか。前回も指摘した通り、日本語で歌っていくとどうしても世界観やメッセージ性がフォーク的になってくる。その傾向をあっさり認めてフォーク回帰してしまったらいいんじゃないかと。

さしあたってHikaruに歌ってみて欲しいのは「新しいお母さん」についてだ。一昨年実母を亡くし、昨年結婚して義母を得た。彼女との関係性はどうなのだろう。それをそのまま歌えば単なる昼ドラ的な嫁姑問題にしかならないが、そこをスタイリッシュにPopsとして纏められたら多くの共感を得られるんじゃないかと思う。歌詞は所詮虚構なのだから実体験なんて伴ってなくてもいいのだが、今しか歌えない歌詞があるのなら、書いてしまうのも悪くない。ちょっぴり期待してしまう私なのでした。

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ヒカルが10年ほど前にさだまさしに注目していたのは、彼がまるで喋るような自然さで日本語の歌を歌っていたからだろう。実際、フォークギターを抱えながら軽妙なトークで笑いをとりつつそのままの流れで歌に入っていく巧みさは誰にでも真似出来るものはない。「15歳の小娘が『いつお泊まり?』ってどういう教育をしてるんだ、こいつの親の顔が見てみたい、と思ったら藤圭子だった」みたいな鉄板のネタの名調子からそのままメロディーが流れてくる。日本語が喋りとメロディーを仲介しているともいえる。

奇しくも、でも何でもなく、その頃のヒカルはギターを抱えてBe My Lastを作詞作曲、ギターの弾き語りにまで挑戦していた。EXODUSから帰ってきて久々の日本語曲という事で取り分け歌の中の日本語の位置付けについて考える時期だったのだろう。さだの言葉と音符の選び方と合わせ方は大いに参考になった筈である。彼も井上陽水や藤圭子同様、70年代に年間トップクラスの特大ヒットを飛ばした天才で(普段の親しみやすさからすると奇妙な形容だけれどな)、やっぱりヒカルは似た境遇というか共鳴できる人間に敏感である。

繰り返し書いてきた事だが、日本語のポップスは基本的にフォーク・ソングになっていく。というか、日本語ポップスの基本はフォークである。パンクをやってもラップ/ヒップホップをやってもロックをやってもどれもいつの間にかフォークになっていく。パンクバンドが海援隊の曲をカバーしたり、ラップも結局「お母さん育ててくれてありがとう」とか歌ってたし(ギャングスタラップとの彼我の差ときたら…)、GLAYの歌詞なんか完全にフォークである。つまり、サウンドは極力抑え、日本語の響きを中心に据えるのがいちばんしっくりくるのだ。ギター一本の弾き語りで済んでしまうというか、煩わしい音の数々は要らないのである。

その点を踏まえると、ヒカルの場合どちらかといえばギターで作曲したBe My Lastより、珍しく歌詞が先に出来てあとからメロディーをつけたピアノ作曲の誰かの願いが叶うころの方が更によりフォーク的であったといえるだろう。日本語の響きを中心にしてシンプルにピアノの伴奏だけでサウンドを構成する。確かに、いつものヒカルのバラードとは異なる静かなメッセージ性が感じられた。

あれから11年経つが、またこういったフォーク的アプローチの曲が聴ける事はあるのだろうか。まず、日本語の歌を作るかどうかという所から始めなければいけないし、英語のレパートリーの中でもAbout Meのようなフォーク的アプローチの歌もある。Hikaruのもつスペクトルの広さからすると数あるバリエーションの中の一つでしかないかもしれないし、国際的展開を望む/臨むのであればあまり賢明なアプローチとはいえない(日本語がわからないと何が面白いのかさっぱりわからない)けれど、アルバムの中に一曲くらいピアノかギターでの弾き語り曲があったら嬉しいなって思ったりもするのであった。ライブも楽しみになるし。

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