無意識日記
宇多田光 word:i_
 



なんか最近ややこしい話ばかりしているからここらで舵を切って…もっとややこしい話を。(笑)

前回のテーマと繋がらなくもないんだが繋げるのも面倒なので一見ぶったぎっているようにみえる流れでいこう。音楽家Utada Hikaruの"自我"の話である。

プロフェッショナルを極めれば、というか"生来の"、もっといえば"天職に就いた人"というのは、自我よりそのプロフェッションの対象の方を「より大きなもの」として認識する。こういう考え方をする人間は、数学者や物理学者、芸術家に多い。案外生物学者には居ない。スポーツ選手には幾らか居るが、経済学者や法学者には皆無に等しい。エンターテイナーには結構居る。伝統芸能継承者たちはこうでないとやってられないし、建築家もこの人種が多い。最後の2つは自分らの寿命より長いものを作っていくのだからある意味"当然の"感覚である。

ここである。Hikaruは、自らの生み出す音楽が、例えば自己実現とか自己の表現以上の"何か"であると明確に感じた事が過去に何度かある。我々に伝わっているのはFINAL DISTANCEとPrisoner Of Loveだろう。

そのどちらも、自分自身より大きな存在として音楽を捉えている。こういう風な体験をした芸術家は、例えばその一生を音楽を生み出す事に"捧げる"ようになる。奉仕とか献身とか、そういった言い方で表される態度であり、それはしばしば信仰に喩えられる。神という概念は自己より"上位"に置かれる。故に、彼らの"仕事"(works/profession)は、彼らの自我の領域を超えて"神々しい"作品となる。彼らはいう。「私はチャネリングしただけだ。私を通って、作品は生まれてきた。」と。伝統的な世界観である。


こういった"神々しい体験"を重ねても、しかし、Hikaruは、例えば「音楽家としてその身を一生音楽に捧げる」といったような求道者的精神を奉じない。自分の人生を決めつけてしまわない、という言い方も出来るかもしれないが、もっといえば神にその身を委ねないのだ。もしかしたら、根っこは凄まじいまでの無神論者なのかもしれない。

かといって、人間賛歌にも走らない。その哲学は独特である。一方で「総てを覆うガスのようになりたい」とか「0に居たい」とか少し超越的な事も言ったりする。併せて考えると、人間である事を一切放棄しないで自らが神としての役割を果たしたいと思ってきたようにもとれる。

年齢と共に、感じ方や考え方も変化しているだろうから今羅列した言葉たちが今のHikaruにそのまま当てはまるとも思えない。ただ、桜流しの高い高いレベルを考えると、更にここから質を上げようとするならば、音楽に身を奉じなければならなくなる、つまり「伝説の音楽家たち」に肩を並べる為に自己を、自我を、自意識を、打ち捨てるまではいかなくとも二番目以降の何かに格下げしなくちゃならないかもしれない。そこをどう考えるか、である。

今のHikaruは、油断したら勝手に出てくる神々しさを敢えて押さえてでも自分の生む音楽はPop Musicに帰結させたい、という意識が健在であるように思う。即ち桜流しの次はもっとわかりやすくなるだろう、という予言である。あそこから更にディープに深入りするとなれば話は変わる。しかし、今までそうはしてこなかったのだからこれからもそうはしないだろう、という見立てが今のところ私の中では優っている。果たして、どう出るか。人間活動の成功具合がここに大きく影響する事はいうまでもないが、兎も角次の新曲までまだまだ時間があるだろうから取り敢えず今はラジオを聴いて彼女の音楽に相対する感覚というものを肌で感じ取っておきたい。きっとそこから未来に繋がっている筈だから。

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Hikaruはかつて(5年前かな?)、「フィジカルは大事。読んだ本を書棚に並べて確認する作業とか手触りとか云々」なんて趣旨の事を言って、ソフトを物理的に残す意義を強調していた。それには全面的に同意だが、だからといってフィジカル不在の生活(って変な表現だなー)がいつまでも物足りないものなのかというとそうでもない。ここでも前に述べたように、例えば配信で購入した音源でも、自分で書いた感想なりレビューなりをアーカイブスとして書きためていけば、それが書棚の代わりのようなものを果たすようになる。しかもそれは、インターネットを通じて他者と共有出来る所がフィジカルな書棚と異なるところだ。

そして、その共有力は「次の展開」、つまり、新しく価値観を共有できる人たちとの交流や、そこから教えてもらえる新しい作品との出会いなどを齎してくれる。この強力さをここ15年程で多くの人が味わってきた。

一方で、「純粋な個の時間」は確実に減った。嘗ては「本を読む」というのはかなりパーソナルな活動だった筈なのだが、今はもう他人の感想が気になったらすぐに検索出来てしまう。ある意味、読書を通じて得られたパーソナルな体験がすぐさま社会的な価値付けにすぐ還元されてしまうという"危険性"も孕んでいる訳だ。

この"危険性"にどう対処するか。Hikaruの言うように「フィジカルを大切にする」というのも一興だが、そもそも本とかレコードというものは、自分以外の誰かが作り出した作品な訳で、最初っから社会性の種を孕んだものだ。そこにある特殊性というのは、本に顕著だが、著者のパーソナルな体験を文字を通じて他の人のパーソナルな体験として歳発現させる事にある。つまり、実はフィジカルは関係なく、本来の基本「対話」に立ち戻れば、インターネットを通じた交流でも「パーソナリティ」の回復は可能であるという事なのだ。

導かれるべきは、寧ろ、他者と他者の意見を比較・検討できてしまう事にある。1と2までは個人的だが、3からは社会性の問題が出てくる、と言い直せばいいか。ただの読書なら電子書籍でも可能だが、そこから「第三者の眼」までの距離が異様に短くなった点が問題なのだ。ややこしいテーマだな。次回へ続く。

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