無意識日記
宇多田光 word:i_
 



最近この日記でも度々「モノラルの魅力」について語ってきた為、「風立ちぬ」がモノラルである事は如何にもタイムリーだった。いや、だから何ってのはないんだけど。

ステレオの魅力は臨場感である。まるでその場に居るような感覚。5.1chでは、特に前方の席ではあからさまだが、画面の外側からも音が聞こえてくる感じすらする。そうやって音に取り囲まれる感覚がない為、どこまで行ってもこの映画での「音」は、BGMも含め「絵」の補足説明以上の役割は与えられていない。

その代わり、その「絵」の充実振りは目を見張る程だ。昔からそうだとは思うが、宮崎駿監督は銀幕の使い方が上手い。即ち、映画館で観るスクリーンの大きさを計算に入れて絵を動かしてくる。最近は家庭用テレビも随分大画面になったものだが、この"上手さ"を感じる為には、やはり映画館に足を運ぶのがいちばんだろう。

画面の余白の残し方。銀幕上でのキャラクターの左右への動き。これは私だけかもしれないが、音がモノラルだった分絵が余計に大きく見えた気がする。というのも、先程述べた通り今の映画館での5.1chサラウンドでは、画面の外側からも音が押し寄せてくる為、その感覚と比較してどうしても画面を"手狭"に感じてしまうのだ。この枠の外にも世界が広がっているのにそこは映っていない、と無意識のうちに感じてしまっている。

モノラルだとそれがない。存分に、動く絵の大きさを堪能できる。それに、人間の耳とは現金なもので、たとえ効果音がモノラルでも画面上でキャラが右から左に動けば、音もそれに伴っていると解釈してしまうものである。「動く絵が主役」。モノラル戦略の真意はその主張にあるかもしれない。

となると気になるのは人の声、も声を当てている人たちの事だ。これはモノラルもステレオも殆ど関係ないが、庵野秀明監督…って今回は監督じゃないが…が主役の声をあてている、と大変話題になった。彼の声はどうだったか。

結論から言えば、私は適任だったと思う。宮崎アニメは声優に意外な人選をする事で有名だが、これは気を衒った感じがしない。ちゃんとアニメに、主役の彼に合った声をあてていると感じた。確かに演技が上手いか下手かといわれれば下手だし、特に滑舌がいいわけでもないが、"声による人柄の表現"という点ではハマっていたように思う。

彼の評価については、もう少し時間をかけて語らなければならないかな。そろそろHikaruの事を書きたくて書きたくて堪らなくなってきているのだが、もう暫くアニメの話を続けておこうと思う。彼女が読んでくれていたら、いいんだけど。

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「風立ちぬ」の、今度は「音」の話。

最初冒頭の曲だけレトロ感を出すためにそうしたのかな、と思ったらさにあらず。最後までずっとそうだった。この映画、全編モノラル音声なのな。ぐぐってみたら確かに事前記事にしっかりそう書いてあった。うぅむ。

5.1chサラウンドが標準となっている映画館で、真ん中のスピーカーしか鳴らさない、というのは逆に一昔前では出来なかった事でもある。2chのシステムには真ん中にスピーカーなんてないのだから。即ち、パブリック・アドレス的には、映画館のどこに居ても画面の中央から音が聞こえてきて都合がいい。古いように見せかけて結構モダンなモノラルである。

で、モノラル音声だから何が違うか、何か物足りないかというと全くそんな事はない。映画を楽しむ上で何の支障も感じなかった。多くの観客が「そういえば」という程度なんじゃないかな。普段から映画館に通い慣れているような層からすれば、斜め後ろからも声が聞こえてきそうなサラウンドがない事に違和感を感じるかもしれないが、ジブリ映画といえば普段映画館に足を運ばない層すら呼び込むコンテンツである。彼らにとっては、何もなかったに等しいのではなかろうか。

正直、「何故モノラルにしたのか」という問いに対しては「ステレオである必要がなかった」以上の積極的な理由は思いつかない。「これで十分だからいいんじゃないか」と。作品の時代背景を考えれば、一部の場面にも登場したように、蓄音機から流れてくる音楽もモノラルなのだからそれに合わせた、或いは、劇中でそれが鳴っても違和感がないようにした、ともみてとれる。ずっとステレオの音楽が流れてくる中、蓄音機からモノラルで音楽が流れてくるとどうしても聴き劣りするというか、いきなりしょぼくなったような感覚に陥るだろうからね。その点だけをみても、モノラルでよかったともいえる。

何より、この作品はアニメーション自体が非常に雄弁である為、そんなに音楽にでしゃばってもらう必要はない、という事なのかもしれない。音に凝りすぎてそちらに気をとられて肝心のアニメーションの印象が薄くなってしまうのを避ける、という意味合いもあったのではないか。劇伴音楽も効果音も、あクマでアニメーションを盛り立てる為の脇役に過ぎない、脇は脇に徹すべし、という哲学なのかもしれない。もしそうだとすればこの試みは成功だったといえる。コロンブスの卵的な、見事な発想の勝利である。

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