無意識日記
宇多田光 word:i_
 



オーディエンスの質、というと若干堅苦しく聞こえるが、これは所謂その場でのマナーの問題に過ぎない。つまり、あれをやる、これをやれる、という観点ではなく、あれをやらない、これをしない、という話。問われるのは能力ではなく自制心である。具体例を出さないと何の話かさっぱりわからないが、本題と関係ないから御容赦を。

宇多田ヒカルの場合、いきなり全国ツアーがアリーナクラス主体であった。これではファンの方も位相が揃っている筈がない。静かにじっくり聴いていたい人たちと立ち上がってはしゃぎたい人たちの間のギャップは、当時からあり、恐らく今も少なからずあるだろう。これがハードコアのLIVEなら静かに聴きたい人は後ろで観るのがマナーだし、クラシックのコンサートではしゃぎ始めたら問答無用でつまみ出される。例えばロックフェスに慣れてる人は、クラシックのコンサートでは演奏中にホールを出入りする事が禁じられている、だなんて"常識"すらピンと来ない。チャイコフスキーの交響曲第1番第1楽章に遅刻してしまうと20分間ロビーで待ち惚けだ。何で今その曲なんだかわかんないが。

そういった"常識"を、ヒカルのファンの間で練り込んでいく時間なんて、なかった。本来ならライブハウスから始まり、お客さん全員顔見知り状態からそういう常識を醸成する雰囲気は作られていくものだが、ヒカルにはそれがなかった。ジャニーズなんかはいきなり凄い規模のツアーを打つけれどあそこはファンにも事務所にも伝統がありまずジュニア時代にバックダンサーから…という演者の手順、ファンの方もベテランで…という、歌舞伎の世界のような確立した構造がある。AKBだって秋葉原の小さい劇場からスタートしている。Perfumeのサクセスストーリーも有名だろう。宇多田ヒカルには何にもなかった。あるのは母親が歌手だったという"事実"くらいなもんだ。それがどれ位関係があったやら。


ライブパフォーマーとしてのペルソナを今Hikaruがどれだけ気にしているのかはよくわからない。しかし、間が空きすぎているのは考えものだ。世代交代、という前に人々は進学や就職や結婚などで状況が変わってゆく。また6年以上のインターバルがあく地区が日本の至るところと、そして、このままでは全米の至るところとロンドンに、出来てしまう。

In The Flesh 2010の規模が理想的だったという話は幾度となくしてきた。ああいう風に各地のオーディエンスを、LIVEの雰囲気を育てていけば、更に人数が増えた時によりよいものになっていく可能性を秘めていた。これが、また、殆どゼロからのスタートになる。


多分、"LIVE観"の違いがあるのだろう。私からすれば、LIVEとはその日の夜の2時間で決まるものではなく、何十年、モノによっては何百年の歴史を背にして増殖していく大きな大きな"作品"なのだと思えている。サグラダファミリアみたいなもんである。

そう考えると、Hikaruにはもう時間があんまりない。またもや私の感覚の話をすれば、LIVEを一定の一里塚に達したと見れるまで大体「30年」かかる。これはアーティストの都合ではなく、オーディエンスの方の都合である。英語で世代をGenerationというが、これには30年という意味もある。即ち、一世代が巡る位に耕し続けて漸く成し遂げられる領域がそこにはあるという事だ。最初に感動した少年少女が成長した我が子を連れてコンサートにやってくるまで頑張って、そこで描けるものがあるのがLIVEコンサートというものだ。つまり、"LIVEツアー"というのは、地域を空間的に移動するだけでなく、それは時間的な旅でもあり、世代から世代へと紡がれる旅路でもある。ある意味"LIFEツアー"でもある訳だ。

クリエーターに年齢は関係ないと思うが、万単位のオーディエンスと一緒に作り上げていく"LIVEツアー"という人生を捧げた作品には、時間の限度というものがある。30歳を超えたのだから、そろそろそんな事も考えていかなくてはならないかもしれないよ。

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オリコンチャートが役に立たなくなって久しい。いや役に立っていた時期はあったのかと問われれば答に窮するが今よりはニーズのある時代があった、と言っておけばいいだろうか。今や総選挙の順位の方が国民的関心事らしい。私は一度も見たことがないからわからない。

音楽の方でいえば、今は最も信頼のおける数字はLIVEの動員数となるだろう。円盤の売上は上記の通りアテにならないし、ダウンロード数や再生回数などもWebの上では評価が難しい。人間1人1人を動かした数、というのはかなり明確な指標になる。尤も、実際に"動員数チャート"を毎週提供したとしてもニーズがあるかどうかはわからないが。

音楽がダウンロードできるようになって以降、LIVE演奏の価値が謳われるようになって久しいが、先を見た時、その動員数という量の面より、ショウとしての質が問われる機運が徐々に増してくるかもしれない。

質、といっても舞台の上の話ではない。そちらは何千年も前から問われ続けている。そちらではなく、観客・聴衆の質の話である。

これも、言葉を選ばないと誤解を招く。クラシックの上品な聴衆は質が高い、ハードコアで暴れている下品な連中は質が低い、土居った話ではない。いやまぁそういう見方もあるだろうがそういう一面的な見方とは異なる話。

例えば、昔のエアロスミスが東京ドーム公演を行った際観に行った事があるが、一部の有名な曲以外では観客は無反応に近く、バンド渾身の演奏もただ遠巻きに眺めているだけだった。代理店のイメージ戦略のお陰なのかしらないが、人数にせよ客層にせよミスマッチが起こっている事は明白だった。一方でボンジョヴィが東京ドームを埋めた時は、よいパフォーマンス、好きな楽曲が披露された際には盛り上がる、あぁファンが沢山見に来てるんだな、としみじみできる客層がかなり多く、同じ会場で演奏したエアロスミスとはかなり対照的だった。寧ろパフォーマンスの内容は、私の目からみれば一部エアロスミスの方が優っていたにもかかわらず、だ。

つまり、ここらへんが問われるのである。商業的に動員数だけを追求すると、オーディエンスも含めたショウの価値は下がる。ミュージシャンのパフォーマンスの良し悪しに対して適切な反応を出来るファンを密度濃く揃えられるか。それが、最終的に効いてくる、そんな価値観が、徐々に生まれてくるかもしれない。人々が動員数を気にし始めた後の時代の話になるだろうが。

で。そういった考え方で今までのHikaruのLIVEの歴史を振り返ってみるとどうなるだろう、という話がこの後続く予定なのですが果たしてそれは次回か否か。私もまだわかりません。(笑)

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