無意識日記
宇多田光 word:i_
 



桜流しの歌詞は東日本大震災を踏まえたものだ、という解釈は恐らく正しいだろう。運命に翻弄される姿を散った桜の花びらが流されてゆく姿と重ね合わせる。

ヒカルの特徴は、破滅や悲劇を描く時に美を創出したとしても、退廃的にならない事である。わかりやすくいえば、彼女は美を生む為に破滅や悲劇を自ら作るような事はしない。美の為に破滅を追い求める姿勢が皆無なのである。

しかし一方で、喜びも悲しみも私には必要、とも言っている。ここらへんの峻別が難しい所で、だからこそ私の出番の筈なのだが、かなりもどかしい。

時間的に整理してみればわかりやすいか。ヒカルは、予め自らの意志で破滅を作り出そうとしたりしないが、何かのカタストロフが起こった後に自らに沸き起こった感情の起伏は必要なのである。どれだけ喜びを追い求めていても悲しい事は起こるのだから…という言い方もまだまだそぐわないか。もどかしい。

桜流しは、美しい。自らの体験を綴るように悲劇を描いているが、圧倒的なのはそこに宿る美しさだ。なぜ退廃の誘惑から自由なのか。こっちがイメージから勝手にそう思っているだけで裏ではネコでも殺してオブジェを飾っているのだろうか……ないよなぁ、うぅん。ヘルシーな生活をしてるかどうかはわからないが、やはり"遣る瀬無き哉"は彼女の実感に思えて仕方がない。

私は、私の宇多田ヒカル理想像を宇多田光に押し付けて勘違いしているのだろうか。膨大な経験論からいえば、それはなさそうだ、わな。ネコを殺すどころか由なければ蚊を潰す事すらしようとしない人間なんだし。

退廃がなければ耽美も溺美もない。そんな言葉ないけれど、美に呑み込まれ美に溺れる事もない。その踏みとどまり方は、つまりジャンルから自由である事の極意、最強の利点なんだと思われる。ここまでヘヴィでダークでエモーショナルなのに、この音楽は、桜流しはクラシックでもメタルでもゴシックでも演歌でもなんでもない。美しくはあるが、美が至上命題になっていないのだ。その庶民感覚。決して十全に聴き手に優しい歌とはいえないが、なんだかんだでわかりやすい。袋小路に迷い込んだ感覚がない。もしかしたら彼女の音楽性でいちばん好き美点は、ここなのかもしれない。なのに自由をうたうのではなく『最後に愛が』って歌っちゃうのは光らしいというか何というか。なんだか自己矛盾。てへへ。

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