(前回からほんのり続き)ではヒカルさんのステージでの「カッコよさ」は、どう出せばいいのか。これは「ステージでのカッコよさ」の本来に立ち戻って考えないといけない。
そこにある聴衆のニーズ。早い話が「キャー!」と言いたいのだ。コンサート会場という非日常空間で、憧れのスーパースターを目撃する為にわざわざ足を運ぶのであって。その際に、ステージに上がる主役たちはちゃんとスーパースターとしての役割を演じ切らないといけない。皆の夢を醒まさせてはいけないのだ。
が、ヒカルさんは、そもそも素の状態こそが最も「夢のような」或いは「夢や想像を遙かに超える」存在なので、何かを演じる必要はない。寧ろ、既存の役割を演じる方が陳腐化する。通常であれば舞台上でキラキラしてる王子様をみて「キャー!」となるのだが、ヒカルさんの場合は身近なところをみせればみせるほど感動される。「あんな歌を歌える人がこんなに身近に感じられるなんて」というギャップがよいのだ。なので、ヒカルさんは素でよい。いや、素がよい。最近は本人も自覚が出てきているので、例えばNYLONのインタビューでも
『極力素でいることが、やっぱり自分にとっても人にとってもハッピーなことだなって思います。』
という風にかなり言い切っている。宇都宮隆の集中力を研ぎ澄まさせたパフォーマンスの結晶とあのダルダルなMCを同等に扱うのはなんとなく申し訳ない気もするけれど、それが宇多田ヒカルの実際なのでね。凄過ぎるからこそ、「宇多田ヒカルって、居たんだ!/実在したのね!」と言われてしまう存在だからこそのこういうやり方による「カッコよさ」「カッコのつけ方」なのだった。
まぁそれはそれでいいとして。そういう、「歌ってる時のキリッとした姿」と「喋ってる時のぐだぐだっぷり」のギャップが魅力、というのはわかるのだけれど、「ギャップがある“から”魅力的」とまで言われると、私の心は離れるわね。こちらとしては、ただ単に生歌が凄まじいだけでも魅力的だし、あのドジドジあたふたっぷり自体も大変愛らしく愛おしい。別にそこに落差とか比較とかあんまり必要ない。あの歌を披露したままノーMCで舞台を去って行っても目はハートマークだし、さだまさしよろしく2時間あのグダグダな喋りを聞かされてもやはり目はハートマークのままだ(まぁインスタライブでちょっと近い事は実践しているか)。ギャップがある“のも”魅力のうちだが、なくたってやっぱり宇多田ヒカルは宇多田ヒカルだろう。
ここらへんで多分、それぞれに趣味嗜好が分かれるだろうな。そして、ずっと残るのはそういう私みたいな「ハートマークを取り下げない」人種だったりします。いつも言ってるように、音楽性に惹かれてる人は、時期によって離れたり戻ってきたりだからね。いつも違う曲調を世に問うてるから。
となると、仮に(思考実験として)宇多田ヒカルのファンクラブを作る事を考えるなら、その活動内容がアイドル化してしまうのが自然な流れで、そうなるとかなり音楽性のファンの皆様から白い目で見られる事が請け合いなのだ。ブロマイド購入で一喜一憂してたり、写真日記(今だとInstagramかな)の更新でキャーキャー言ったりという“ノリ”に、きっと眉を顰められるだろう。
毎度ツアーのチケットの販売について、ファンクラブ作ればいいのにと言われてしまうけれど、仮に作ったとしたらそういうノリなんだぞ? コンサートチケットを是が非でもという人たち、文句ひとつ言わずに付き合ってくれるのかなぁ? もしかしたら音楽的なファンクラブ活動はひとつもないかもしれないよ。固定層ニーズが、だってそっち(アイドル化)なんだもの。ここのギャップは、ギャップ萌えのもつ落差よりもっと大きな隔たりになるだろうね。真面目に音楽を聴きたい人の方が、ファンクラブに向いてないというね。気に入った時期だけ加入してそうでなくなったら抜けてを繰り返すならいいけど、それでファンクラブ優先チケットを売れって言うんならプレミアムチケットを高値で売り出すのと実質変わりなくなるからファンクラブ運営なんて不要、最早蛇足なのよね。
というわけで、こういう思考実験をしてみても、宇多田ヒカルとファンクラブは極めて相性が悪いという結果となりそうだ。コンサートに拘る音楽ファンと、アイドル化して目をハートマークにしっぱなしな層とのギャップを埋めるファンクラブ運営方法を見出すのが至難の業という意味においてね(え、話の進め方が穴だらけ? そだね(笑))。やっぱり、個々が好きなように推したり応援したり萌えたり騒いだり祈ったり願ったりしてる今の状況の方が、モアベターなのかもしれません。今のヒカルがどう思ってるかは、わかんないけど。
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