『SWITCH』でヒカルは『真夏の通り雨』についても語っている。現存する「日本語の歌」の最高峰、金字塔ともいうべき名作について今までより更にもう一歩踏み込んだ内容だ。
曰く、最も自分の言葉であると。曰く、具体的な情景がある、と。これは一見すると矛盾している。具体的な情景といっても虚構の物語の筈なのだから。若い頃の恋を思い出しながら違う人に抱かれる"精神的不倫"の物語は、一旦、本来のヒカルの言葉と重なるようなダブルミーニングとなっているのがまず特徴なのだが、今回ここまで踏み込んだ事でもうひとつのヒカルの歌詞の特徴についても触れるべき頃合となった。
それは、『思春期』の表紙に描かれた歌詞の予言性である。藤圭子は「悲しい歌ばかり歌っていると人生まで悲しくなる。だから娘には演歌を歌って欲しくない」と語っていた、らしい。これは普遍的な真理ではなく、そういう人が歌ったならそうなる、という限定的な真理だ。歌に入り込み過ぎて歌に乗っ取られるまでいく究極の歌手である藤圭子だからこそ言わずにはいられなかった真理。そしてそれは、自ら歌を作り出して自ら歌う二世にとってはより強い真理としてはたらく。故に予言性まで帯びるのだ。
論理的に攻め立てれば、即ち、ヒカルは『真夏の通り雨』に描かれた片側の側面、"虚構の物語"の方を将来実現する。自分の意志で仕向けるというより"勝手にそうなる"のだろう。歌に乗っ取られるとはそういう事だ。
ヒカルにとって「若い頃の恋」がいつになるかはわからない。40歳の時の恋を80歳の時に思い返せば「若い頃の恋」かもしれないが、『真夏の通り雨』はそういった若さを描いてはいない。
『たくさんの初めてを深く刻んだ/揺れる若葉に手を伸ばし』―このように描かれる瑞々しい青さを湛えた情感こそが、この歌に描かれた"若さ"だ。数字上とは一味違う、情感としての若さ。
これはある意味、我々がこれから巡り会っていく『初恋』への布石となるかもしれない。24時間後にはドラマの第2回がオンエアになる。テーマソングと違いイメージソングは劇中のいつに現れるかわからない、どころか、今週現れるかどうかすらわからない。それでもひとまず、『初恋』のオンエアに期待しよう。その時、『真夏の通り雨』を一度聴いた上で挑むのもいいかもしれない。
ヒカルの言い方からしても、暫くは『真夏の通り雨』がヒカルの日本語の歌の基準点、スタート地点になるだろう。別に常にそこに立つ必要はないが、"見晴らしのよさ"では一番だ。ここから眺める事で、ヒカルの日本語がどう変化・進化したか、何を含めるようになったか、何を歌えるようになったかがスッキリ見えてくる。配信が始まったら(5週間後…)歌詞を比較・吟味してみるとよい。新たな気づきに出会える筈だ。
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