無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ちょっと自分も肩の力を抜かないといけないなと思い。全く関係ない話題で一服。即ち、一回休み。


大谷翔平が週間MVPを獲得したそうで。基準はよくわからないが、野手として3試合連続本塁打、投手として7回1安打無失点では文句のつけようもないだろう。

しかしこれだけの結果を既に出しているのに未だ二刀流に疑義を唱える方々がいらっしゃるそうで。私は大いに讃えたい。今や日本もアメリカも総出で大谷ワッショイだ。二刀流バンザイ状態で、正直ここまで来たら彼の活躍に難癖をつける方が余程胆力が要る。多数派に阿って「だから老害は」と謗られても頑なに持論を曲げない。素晴らしい。このままずっと大谷に対して呪詛を吐き続けておくれ。

二刀流に否定的な論は大体一言にまとめられる。「もったいない」。大谷の野球の才能はとんでもなく優れている。だからこそ、野手か投手かのどちらかに専念すれば超一流の成績を収められるだろう。野手なら本塁打王はおろか三冠王だって可能だろうし、投手なら最多勝や最優秀防御率、奪三振王、サイヤング賞も夢ではない。それを、二刀流に挑戦することでどちらのタイトルも取れずに終わる。規定打席数にも規定投球回数にも届かないのだから。なんとも、もったいない―と。

それに対する更なる反論はといえば。何を言ってるんだ、ベーブ・ルース以来の100年ぶりの本格的な二刀流だ、そんな記録云々ではなく、大谷は野球の魅力を全身で体現すべく努力をしている。過去に殆ど例がないからといって、若者が夢に向かって頑張るのを詰るのは何とも大人気ないだろう―と。

うーん、双方なんかちょっと違う気がしているのだ私は。

今のエンゼルスの監督が言うには、大谷の最大の美点は「冷静な分析力」にあるのだそうだ。私もそういう印象がある。彼が二刀流を目指しているのは、夢を追い掛けるとかいう浮ついた感じではなく、冷徹なまでに自分の才能を見極めた上でとった戦略なのだと思う。

大谷は、栗山監督とともに「世界一の野球選手」「史上最高のアスリート」を目指して頑張ってきた、という前提がある。

恐らく大谷は、自分が野手としても投手としてもどちからどちらか一方だけでは「世界一」や「史上最高」にはなれない、と冷徹に判断したのではないか。多くの人々の印象と違って、彼は常に「自分の才能の無さ」に嘆いているように思われる。まぁ前向きに、だろうけど。

仮に野手一本で行ったとして、果たして大谷は「世界一」「史上最高」の記録を残せるだろうか? 本塁打でいえば王貞治の通算868本やバリー・ボンズの1シーズン記録73本など、彼は可能なのだろうか? 恐らくかなり難しい。投手でいえば、23歳の今から投げ始めて400勝は可能だろうか? 無理だろう。彼は、どちらか片方では世界一・史上最高は無理なのだ。だからこその二刀流。彼は、ただ超一流になりたいのではなく、世界一になりたいのだ。つまり、二刀流懐疑派の「もったいない」という指摘は、目標を低いところ(ただの「超一流」)に無意識のうちに置いているからこそ生まれてくるものだ。もっと高い位置を目指すからこその二刀流、という発想にまでいかない。

自分の目からみた大谷は、イチロー並みに冷徹な戦略家であるようにみえる。イチローはもう日本に居た頃から自分の才能を「見限って」長打力を捨て、単打を中心とした安打数を積み上げるスタイルに狙いを定めた。それなら彼でも世界一になれるから、だ。事実、なった。イチローは2004年に262安打という1シーズン最多安打記録を残したし、前人未踏の10年連続200本安打も達成した。こと安打数において彼は間違いなく「世界一」で「史上最高」だ。そうなれたのは、早い時期から野球の花形と信じられていた本塁打への夢を捨てたからだ。非常に冷静な判断による戦略選択だった。

大谷もまた、冷徹に、本塁打王や最多勝といった野球の花形を捨て、二刀流という新たな価値観を開拓している。そこには、自分の持つ能力で世界一・史上最高になるにはどうすればよいかという非常に冷静な分析がある。だから彼は常に謙虚で浮ついていないのだ。見上げた男よ。

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ヒカルが黙っている間に憶測記事は出回るもので、こちらをみれば「ヒカルが若い男に乗り換えた」と書いてあるし、あちらを見れば「キコが遊興放蕩三昧で見切りをつけられた」と書いてある。ゴシップメディアに真実を求めても仕方ない。読者の「こうであって欲しい」「こうであるに違いない」という願望や決め付けに呼応するように書かれるのだから。

だからといっておいそれと情報を流していいものかどうか。黙っている方が対処法としては適切なのかもしれない。そこはヒカルの判断を信用しておこう。

繰り返しになるが、離婚がショッキングなのはそれ自体が不幸だからではない。我々が「結婚」という名の約束・誓い・契りを勝手に祝福したから、だ。祝福した誓いが裏切られたからショッキングなのであって、我々は自分で勝手に祝福して自分で勝手に落胆したのだ。実際、ヒカルの結婚に「おめでとう」と言っていない人は今回の離婚報道に対しても「ふーん」以上の感想は持ちようがない。

ただ、「自分で勝手に」という部分はやや突き放している。ヒカルがWebで結婚報告をしている以上、読者がそれを祝福するのは当然の事であって(勿論、祝福しないのも当然の事である)、それはヒカルには容易に推測できる筈。そして、実際に膨大な量の祝福リプライを受け取ったであろう。

となると、然り。離婚が知られれば祝福の分だけの落胆は覚悟されねばならないと容易に予想はつく筈。というか、結婚と離婚というのはそもそもそういうものだ。

だから、ヒカルを心配するのであれば、ヒカルの身の上ではなく、我々の方が「落胆していない」「気にしてない」と告げる方がより大切である。ただし、嘘をついてまで、とは言わない。正直にガッカリしたと伝える方がヒカルの今後にとってはプラスかもしれない。問題なのは、自分の落胆をヒカルへの心配に置き換えない事だ。良心のあるヒカルは、離婚自体を詰られる事と同様、要らぬ心配をかけている事実に対しても心を傷めているだろうから。

いずれにせよ、これもまた繰り返しになるが、離婚は「総てのコトが終わった後」に起こるものだ。私生活のヒカルはもう切り替えているだろう。我々は動揺しないのが一番である。難しいけどなっ。


そういえば昨年末に「12月上旬宇多田ヒカルは夫とこどもを連れて来日、子に日本のクリスマスを体験させたかった」という記事が出ていたな。時期的にも内容的にも捏造が望まれるものではなかった為妙に真実味を放つ記事だった。となると離婚に至ったのは一体いつなのか。或いはその時もう心は決まっていて、身辺整理や挨拶回りの為に3人で日本に来たのかもしれない。「3人で」というのが誤報の可能性もあるが。

昨日はダヌパの出生自体含め広く可能性を探ってみたが、勿論それは「ありそうなこと」ではなく単に「ありえるかもしれないこと」に過ぎない。しかし、つまり離婚とは、そして、それについての情報不足はありもしない「噂」を広めるには格好の材料なのだ。確かに「そっとしておいてあげようよ」という態度は一番正しいが、我々は我々で、四年前に自分たちで勝手に告げた「祝福の気持ち」が裏切られた点について、感情的に折り合いをつけないといけない。でないと、多分これから発表されるであろう幾つもの新曲たちの歌詞をまともに受け取る事が出来なくなるからだ。ヒカルの歌を素直に楽しめないっとそんな不幸は御免だろう。できれば、あと一週間のうちにこのぎこちなく滞った感情たちに決着をつけないとです。

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