無意識日記
宇多田光 word:i_
 



そういえばまだ『花束を君に』と『真夏の通り雨』のクレジットを手に入れていない。Twitterを追っていれば『真夏の通り雨』の演奏者が誰だかわかったし、どこかに『花束を君に』のドラマーはエリック・クラプトンのツアーに参加してたかなんかの人だと書いてあったが、そういう事じゃない。配信購入者に何故その資料を渡さないのか、だ。

別に250円で全部入れろとは言わない。デジタルブックレット付きなら300円にするとかでもいいじゃない。

いやもっと言おう。なぜ「全部入りアプリ」みたいなものをリリースしないのか。m4aファイル、ハイレゾファイル、PCやスマホの壁紙やスクリーンセイバー(もう誰も不要だけどな)セット、LINEスタンプ、演奏者や作詞作曲クレジット、レコーディングのディテールや歌詞を記したデジタルブックレット、ここでしか聴けないインタビューの音声と文字起こし、ビデオグリップ、カラオケトラック、楽譜やタブ譜、ヒカルの写真集…幾らでもアプリとして付帯できる候補はある。あとはコストと相談するだけだ。一曲を楽しむ為に、今の時代ならこれだけの広がりを送り手側から提供出来るのである。何故やらない?

「音声だけ」というコンテンツがそろそろ時代遅れを通り越して"不気味"になりつつあるのを知るべきだ。皆スマホを"見ている"のである。ニュースを読んでる人、ゲームをしてる人、漫画をみてる人、地図を見てる人、電車の検索してる人、株やってる人、天気予報見てる人、スマホでやる事は様々だが、みんなタッチスクリーンを"見ている"のだ。私のように何も覗かずイヤホンしてるだけ、という人は随分減ってしまった。それでも結構残ってるけどな。

そんな世代に対して、音声ファイルだけを売るというのは甚だ殿様商売のように思える。握手券も投票券もつけない、ただの音にどれだけの人が食いつくというのだ…



…みたいな事をどこかの時点で書きたかったのだが、5週間経っても2曲とも配信チャートからなかなか落ちない。どうせ日本の配信販売なんて実売数大した事ないんだから、という言い訳もここまで売れてしまうと説得力を失ってしまう。なんだろう、ある意味改革の目が無くなってしまったような。折角の機を逸してしまったような。

市場音楽において最たる良心の宇多田ヒカルだからこそ昔ながらに曲だけで勝負してくれればいい、なんてのは百も承知だ。わかりきった事だ。しかし、何度も言うように、「音声だけ」というコンテンツは電話とラジオと蓄音機が発明されたこの百数十年にしか存在していない。オルゴールだろうがなんだろうが、音がする方には必ず実体の何かがあった。電気仕掛けのスピーカーの揺れっぷりなんて、我々には目視できたところで何にもならない。音楽を聴く時目を閉じる人は昔からたぁくさん居るだろうし、一方で目を開けた時に鳴ってる楽器や演奏している人を見るのは自然だ。しかし、スピーカーをひたすらじっと凝視するのは余程のオーディオマニアでない限り、無いだろう。音だけが独立した存在になっているのは、異常事態なのだ。スマホ世代はそれを“正常化”しているに過ぎない。なんかやる時はそれを見ろ、と。

新曲をアプリでリリースすれば、「この曲を聴いている時にすること」を幾らでも提供できる。そうやって娯楽の全体を演出できれば、若いファンも食いつきやすいと思うのだが、『花束を君に』も『真夏の通り雨』もともに高い年齢層を対象として想定されている楽曲であり、ダウンロード販売自体いい顔をされてないんじゃないかというくらい。「新曲関連全部入りアプリ」のアイデアは、またヒカルが10代20代の若者たちにウケそうな曲を書いた時迄とっておきましょうかね。スマホ持ってない私も、勿論買うつもりでいますよ。

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「さようなら」は漢字では「左様なら」と書く。現代語でいえば「それでは」という意味なので「それでは皆さんさようなら」は重複表現になるんだが率直に言って違和感やだぶつき感がない。本来の意味を離れた別れの挨拶の言葉になっている。

『真夏の通り雨』と『花束を君に』の歌詞には、『雨』のように共通して歌われている語があるが、なかでも鮮烈なのは『サヨナラ』と『さよなら』だろう。

特設サイトに掲載された歌詞では、『真夏の通り雨』の方はカタカナで『サヨナラ』、『花束を君に』ではひらがなで『さよなら』と表記されている。歌詞なので、本来は音声のみの存在であり表記の違いで作品の質を評価するのは筋が違っているが、一方で、ここにヒカルのこだわりが反映されていないとはとても思えない。『FINAL DISTANCE』の表記をど忘れした事もある人ですけどね。

では、カタカナとひらがなでどういった違いがあるか。

『真夏の通り雨』では次の箇所で『サヨナラ』が出てくる。

『勝てぬ戦に息切らし
 あなたに身を焦がした日々
 忘れちゃったら私じゃなくなる
 教えて 正しいサヨナラの仕方を』

想い人に対する思い出を忘れたくなくて、でもずっと囚われたままでいる訳にもいかなくて、という二律背反の中で、どうにか踏ん切りをつけたいんだけどどうにもならない、という葛藤を歌ったパート。つまりここでは「左様なら」をどう言えばいいかわからない、「左様ならって何?」という状態。言葉に実感が湧いていない。言葉の意味が把握できず言語が音節の塊にしかならないような時、音声である事を強調する為にカタカナで書くケースがある。外国人がカタコトの日本語を喋るとき「アリガトウゴザイマス!」などとカタカナで書くが、これは言葉にこなれていない様子を表す。実際、今も「片言」を「カタコト」とカタカナ表記したばかりだ。

『真夏の通り雨』ではどうやって『左様なら』すればいいかわからない。翻って、『花束を君に』ではこうなる。

『世界中が雨の日も
 君の笑顔が僕の太陽だったよ
 今は伝わらなくても
 真実には変わりないさ
 抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に』

こちらではひらがなの『さようなら』になっている。ただの音声に瓦解した『サヨナラ』とは違い、実感と意味の籠もった『さよなら』に変化した訳だ。…変化? そう、この2曲は繋がっている。そして、順序は『真夏の通り雨』から『花束を君に』へ、だ。『教えて サヨナラの仕方を』とさまよっていた主人公がやっと見つけた『さよならの仕方』が『抱きしめてよ、たった一度』だったのである。つまり、この願いは永遠に叶わない。さよならの仕方を知っても、実際にさよなら出来る訳ではない。『花束を君に』はそういう歌なのだ。



全くの余談になるが、私が初めて『花束を君に』の該当箇所を聴いた時、ここの歌詞を『抱きしめてよ たった一度のさよならの前に』とソラミミした。“の”が一つ余計である。そう聞こえた為、嗚呼、確かに永遠の別れはたった一度しか訪れないよね、と一旦は納得したのだが掲載歌詞に”の“はなかった。"の"が入っていてもなかなかいい歌詞だと思うが、今回解説した、2曲に跨るストーリーに思いを馳せるなら、やはり“の”は無い方がいいのよね。『花束を君に』と『真夏の通り雨』の2曲は、やはり繋げて聴くのが醍醐味なのである。

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