無意識日記
宇多田光 word:i_
 



繰り返しになるけれど。復帰後ヒカルの歌声が変わったという評価が其処彼処に見られたが、私から言わせれば大して変わっていない。いつものように、曲に合わせた歌唱をあててくれている。変化があったとすれば、今までなかった曲調の曲を書いた作曲家宇多田ヒカルの方であって、歌手宇多田ヒカルはその要望に応えたに過ぎない。声が変わったという評価は即ち、ヒカルが多彩な作曲とそれに合わせた多彩な歌唱を披露してきた事実があまり知られていない或いは忘れさられてしまった事実を示唆する。まぁ別にそれでいいのだが、声質や歌唱法の軸が大きくズレたという事はない、と長年(と自分で言うのは違和感があるのだが)のファンから一言申し添えておく。

しかし、歌い方の中に、一部ではあるものの、確かに昔と較べて変化したなと私が感じる部分もある。その代表格が『ぬ』である。

そう言った時点で「そうそう!」と同意してくれた人はどれくらい居るだろうか。ずっと気になっているのだこの『ぬ』の歌い方。

具体的には、『真夏の通り雨』の『勝てぬ戦に息切らし』の『勝てぬ』の『ぬ』。それと『花束を君に』の『忘れぬ約束した』の『忘れぬ』の『ぬ』。この2つである。昔とは、明らかに歌い方が違うのだ。

先に白状してしまえば、何故ヒカルが『ぬ』の歌い方を変えてきたのか、現時点ではさっぱり見当がついていない。またいつか、理由の見立てが出来たらそれについて書きたいと思うが、今はただ「変わったね」と言うだけに留めたい。

とはいえ、昔と較べて「変わった」と言えるほど過去に「ぬ」を沢山歌っているかというと、案外少なくないかこれ。『COLORS』の『青い空が見えぬなら』『塗りつぶしてよ』、『Show Me Love』の『甘えてちゃ見えぬ』…うーん、今見つかるのはこれ位か。今度歌詞検索してみなくっちゃだわ。

まだ気がついていなかった人は、是非この『ぬ』を聴き較べてみて欲しい。昔と較べてヒカルが少し尖らした唇で先へ突き進む、じゃなかった、少し唇を尖らせて丁寧に『ぬ』を発音しているのがわかる筈だ。ここは、確かに、昔と変わっていると思われる。理由は(私の中にはまだ)無いけれど。

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言葉の「嘘」。これは本質的なものだ。音楽は音、聴覚から成り立っている空間だが、そこに話し言葉が紛れ込んできた途端、ある情景を聴き手に"見せる"。視覚すら揺り動かすのだ。

逆から考えてみよう。漫画を読む時。我々は大抵聴覚を使わない。BGMを流す人も居るが、読むのに夢中になってくるとBGMを止めても気がつかなかったりすらする。なぜそこまで視覚に集中出来るかというと、フキダシや擬音、効果音など、文字が沢山書いてあるからである。程度に個人差はあるが、大なり小なり、人は漫画を読んでいる時書いてある文字を頭の中で音声に変換する。その為、たまに書き文字や台詞の無いページに来ると「えらく静かだな」と感じてしまう。実際は、視覚で漫画を捉えているだけなのに、そこに書き言葉があるだけで受け手は視覚のみならず(擬似的に)聴覚まで動員する。支配される。

歌の場合はこの逆である。音だけの世界。聴覚だけなのに、話し言葉がそこに乗ると人は言われた情景や感情を想像する。時にはありありと風景が思い浮かぶ。インストより歌モノがウケるのは、言葉に意味があるからである。

視覚の世界の書き言葉は聴覚感覚を誘発し、聴覚の世界の話し言葉は視覚感覚を刺激する。言葉は、異なる感覚同士を橋渡しし、肩代わりし、繋ぎ合わせる。

その言葉の力を無力だと歌うのが『花束を君に』だ。『どんな言葉並べても真実にはならない』『どんな言葉並べても君を讃えるには足りない』と、まぁ散々なこき下ろしようだ。が、この事は言葉でなければ表現が出来ない。『ならない』とか『できない』とかは、言葉だから表現できる。

書き言葉によって目から耳へ、書き言葉によって耳から目へ、人の感覚の世界は移りゆく。裏を返せば、書き言葉は発せられたらもう既に元の世界、目の世界の住人ではなく、話し言葉も音が人の心に届いた瞬間に耳の世界の住人ではなくなる。元の世界から切り離される事が言葉の役割だ。だから遠くから眺めて『ならない』とか『足りない』とか言えるのである。否定は言葉の特権だ。

ならば。『花束』とは何なのだろう。『花束』を歌う、とはどういう事だろう。言葉には出来ない事、言葉が私は出来ないと言う事、それを出来る何かが『花束』だとしたら…? この話の続きはまた次回、かな。

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