無意識日記
宇多田光 word:i_
 



25日に発売になったIRON SAVIORの新作が期待に違わぬ素晴らしい出来で嬉しい。ピート・シールクという正真正銘のオリジネイターの創るメロディックスピードメタルの王道っぷりと言ったらもう。そして、トーマス・ナックのドラミングだ。スピードメタルはまず速く叩けなくてはならないが、それだけでは足りない。高揚感を煽るフレージングのセンスと、焦燥感の塊のようなグルーヴが肝だ。この道の第一人者たるナックのプレイがIRON SAVIORのサウンドを一段高いレベルに押し上げている。彼が脱退したら速い曲減るだろうなぁ。

というわけで今日はドラミングの話。『花束を君に』で叩いてる人、名前を覚えていないがさしあたってそれはどうでもいい。ダイナミックでタイトなのにどこかとぼけた味わいのある彼(彼女かもしれない)のプレイがこの曲に独特のドラマ性を加味しているのは間違いがない。特に、この曲ではヒカルのレパートリーでは初めてと言っていい、「一番の歌をほぼまるまるリズム無し(ほぼピアノのみ)で歌ってからドラムが入ってきて様子が変わる曲」なので、一番のサビの後半で彼のドラムが入ってくる場面は非常に鮮烈な印象を残している。

名言だらけの宇多田ヒカル語録の中でも超名言といえる「スネアの切なさ」。これがグルーヴから泣きのメロディーを生み出すヒカル・マジックの源泉である事は周知の通りだが、『花束を君に』のドラム・サウンドは、どちらかというと歌の切なさを引き立てる為にわざと無表情を装うような、乾いた、明るくさえあるスネアとハイハットの音色が新しい。そうでありながらタムロールの音場は広く深く、単調なベースラインにもしっかりと空間を与えていて、サウンドスコープ全体の広がりはこの曲のスケール感を大幅に増強している。好みもある為一概には言えないが、ジョン・セオドア以来の"カラーの強い"ドラムサウンドだ。

思えば、『桜流し』でもドラムサウンドは非常に重要な位置を占めていたのだが、これも皆さん御存知の通り、同曲のサウンド・プロダクションはイマイチだ。21世紀最高のクォリティーを誇る楽曲の音質がその程度では、と何度嘆いた事か。その悔恨から3年半。『花束を君に』と『真夏の通り雨』のサウンドは素晴らしい。いやぁ、本当によかった。

原因は色々あるが、ダイレクトかつストレートに、録音時のビットレート&ビット深度が過去最高に高いのがいちばん大きい。かつて最もハイクォリティーなサウンドの曲は『Be My Last』だったが、今回は同等かそれ以上。理由は単純で、今回から“計画的に”ハイレゾ・バージョンを発売する事になったからだ。今までのヒカルのハイレゾ音源は、必ずしもハイレゾ向けに録音された音源を使用していた訳ではない為、擬似ハイレゾと揶揄されるような事もあった(なおそのような揶揄は無視して結構。何の本質も突いていない)。今回はそれを回避すべくレコーディング時からハイエンドな音質で録音してある為、端末のビットレートが128kbpsとかであっても高音質の恩恵を感じられるサウンドになっている。お陰で、『桜流し』の時は口惜しかったドラムサウンドも劇的に改善されている。それもあって、ドラムプレイの魅力がより伝わりやすくなっている点も見逃してはならない。様々なポイントにおいて、ヒカルの音楽はまだまだどんどん改善されていっているのである。
若いって素晴らしい。気分的な意味に於いて、ね。

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音声のみのコンテンツがここ百数十年の特殊なコンテンツであるといっても、いや、だからこそ、かな、音声のみの作品のならではのよさというものを、現代人は堪能できる。

個人的には(と個人的には好きではない書き出しを今二回繰り返してしまったが)、プロモーション・ビデオ、最近ではミュージック・ビデオと言われるようになったか、曲に映像をつけた作品はそんなに好きではない。何故なら、映像が完全に後付けであるケースが殆どだからだ。最初っから音と映像を一緒に作っていくなら問題はないが、大抵は出来上がった楽曲をいじることなく、そこに映像を合わせている。制作上&創作上、視覚と聴覚の間に相互作用がない。「曲のこのパートをほんのちょっぴり演奏してもらえれば、こちらの望む映像を嵌め込む尺が生まれるんだけど」と提案したくても後の祭り。どうにもならない。

そんなだから、大抵のMVは、私にとって目を瞑った方が魅力的だ。実際、名作と言われるMVも、その曲でなければならなかったかと言われるとよくわからないものが多い。『Can You Keep A Secret?』のMVは名作と言われているし私もそう思うが、映像に対して曲がキャンシーでなくてはならない必然性がどれくらいあるかというと、かなり薄い。勿論テーマとして、キーワードの一部に関連性はあるが、そのほんのり具合自体が制約の結果である。ある意味、それによってミュージックビデオという独特の世界が進化してきたともいえる。

それはそれでよいが、わざわざ余計な手間暇をかけて目を瞑らされる映像を作られても、という思いは拭えない。一方で現実的に、動画サイトに貼り付けられなけれざ新曲のプロモーションは覚束ない。ならば、という事でとられる策のひとつが、以前にも触れたが、リリックビデオである。

『真夏の通り雨』のリリックビデオが観たい。歌詞は確かに公式サイトに掲載されている。それを読めばよい。しかし、時間軸に沿って向こうから歌詞がやってくる感覚は、止まっている文字を自ら読む事で時間を進めるのとは真逆と言っていい体験である。宇多田ヒカル史上最強クラスの歌詞をもつ楽曲なのだから、その歌詞をアピールするには、真っ暗な画面に淡々と文字を流すだけでも十二分ではないか。嗚呼、だったら自分で作ればいいかと一瞬思ったが、それは自分の役割ではないな。誰か他の人に期待しておく事にする。かなりセンスが要りそうだけど。

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