無意識日記
宇多田光 word:i_
 



数日前、「山崎春のパン祭り」についてのツイートが出回っていた。いわく、プレゼントの白いお皿の製造元がフランスで、当地ではこの季節にお皿の需要で好景気なんだと。ふーん、という感じだが、これに「ん?」と食いついた人が居た。2ちゃんねるで有名なひろゆき(西村博之)だ。

彼の調べによると、どうやら「そんなことはない」らしい。お皿の値段からみても需要の大きさは微々たるもので、フランスの地元で話題になるような規模のものではない、と。ほほぅ。


こんな話をして何を言いたいかといえば、「嗅覚って大事だな」という事。物事の真偽についてまずあたりをつける。最初に勘がはたらくのだろう、「ん?何か変だぞ」と。このステップを踏まなければ、事の真偽を確かめる為に資料を集めようなんて事はしない。

「嘘を嘘と見抜けない人には難しい。」―インターネットやら2ちゃんねるやらを使う人への、(非常に有名な)ひろゆきからの警告である。裏を返せば、彼自身は、嘘を見抜く能力が高いという事だ。常に物事に対して批判的(critical)な態度でいるのだろう。


一方私はそういう嗅覚が無い。皆無。なので大抵の事は「へぇ~、そうなんだ。」で済ませてしまう。どちらかといえば黒柳徹子に近い。彼女の場合、誰から何を言われても「そうなんですか」と信じてしまう。バカ正直と言ってしまえばそれまでだが、彼女によると「世の中は広い。何があるか、何が起こるかなんてわからない。だから、どれだけありえなさそうな事だって、もしかしたらあるかもしれないじゃないですか。だから私は誰かが仰る事を疑ったりはしません。」との事である。テレビ女優第1号として、ユニセフ親善大使として広い世界を経験してきた人ならではの達観ともいえる。少なくともただのバカ正直ではない。

そこまで達観できない私は、しかし、似たような態度で日々を過ごしている。先程の山崎春のパン祭りツイートに関しても「へぇ、そうなんだ」で済ませた。大事な事は、こちらで勝手に情報を付加しない事だ。私は「そういうツイートを読んだ」という風に記憶する。「へぇ、そういうことがあったんだ。」と勝手に事実認定したりしない。そこに起こったのは、140字以外の文章が私んちのパソコンの画面に表示されて、私がそれを読んだ、その一連の流れだけである。パン祭りの実態も白いお皿も、ましてやフランスの工場も見ていない。事実として、現実として起こったのはツイートがまわってきた事だけだ。そこで言及している内容に関しては、現実か虚構かなんて、わからない。

だから、後日「あれは嘘でした」と種明かしされたら「あぁ、あれは嘘だったんだ」と思えばいいし、と言いたいところだがそうしてはいけない。「あれは嘘でした」というツイートがまわってきたら、“本当に起こった事”は「私があれは嘘でしたという内容のツイートを読んだ事」でしかない。内容については考えないのだから、「あれは嘘だった」も嘘かもしれない可能性を保留しておく事が肝心だ。

結局、我々は、実際は文章や音声や写真や動画しか見ていないのだ。それらが指し示すかもしれない(指し示さないかもしれない)真実と嘘について、言える事はない。ひろゆきのように嗅覚が鋭いのであれば追究してみるのもいいかもしれないが、大抵の人はそんなに鼻が利かない。大事なのは鵜呑みというか、こちらで勝手に情報を補完したりせず、起こった事をありのまま記憶しておく事だ。たぶん、ヒカルのノートにはそういう事がぎっしり書かれてきたのだろう。どこまでも食い違う両親それぞれの言い分を聴きながら。それもまた、何が本当かはわからないのだけれどね。

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葉加瀬太郎が高嶋ちさ子を擁護して炎上しているとな。曰く、「あんな美しい音楽を奏でる人が悪い人の筈がない」とか何とか。

どうしよう。こういう話題食い付いた方がいいかなぁ。葉加瀬太郎といえばBS「真夜中の王国」でCubic Uを取り上げてくれた時のホスト役で、後にはヒカルのCDも買っていると発言しているのでまぁあれだ、彼を擁護する発言でもしようか。

クラシックの演奏家といえば世間からズレている事で有名である。向こうの世間からみればこちらがズレているだけで、まぁ相対的なものだが、流石に音楽性と演奏家の人格の間の相関についての議論なんて中高生の間に通過しておいて欲しいものだ。

が、そんな暇は彼らには無い。彼らが言うには、朝から晩まで、それこそ盆と正月以外は、いや盆と正月すらも潰して練習練習また練習なのだ。こちらの世間の常識とやらにかまけている時間なんてない。クラシックの演奏家の人格に問題があるのは、ひとえにそんなものを要求されないコミュニティーで育つからであり、更に他のコミュニティーに関心を払う時間なんてない事が原因である。高嶋ちさ子の教育方針やネットリテラシーに問題があろうが、葉加瀬太郎の発言が世間一般の中学生以下にしか見えなかろうが、彼らの人生においては低いプライオリティ(変な表現だなこれ)しかないのだから仕方がない。まともに教育できたって穏当なツイートが出来たって演奏の巧拙にはほぼ一切関係がない。彼らがそれを身をもって証明してくれている。

こうなるのは、クラシックの世界での教育の手法が極めて精密に成熟しているからだ。過去のノウハウの蓄積が膨大な為、やるべき事がありすぎる。練習漬けの毎日でないと競争に勝てない。権威化する一因である。更に言えば、故に彼らにはそもそも音楽的な才能が欠けているのだ。それを猛練習によって補っているに過ぎない。故に人格が歪むという事もある。自分の本来の能力以上に技能と地位を得てしまうと、驕りや侮りが生まれる。周りが馬鹿にみえる。まぁそれも仕方あるまい。

擁護になったかな。うむ。

「音楽家」でひとくくりにすると誤解が沢山生まれる。例えば「美しい音楽を演奏する才能」と「多くの人から共感される歌詞を書く才能」では求められるものがまるで違う。クラシックの演奏家たちは作詞する機会なんてないし、ましてや何十万人から"共感を得る"なんて必要がない。

逆に、Pop Musicianのトップクラスは何らかの意味で人格者でないと務まらない。それはそれは沢山の人たちから協力を得て事を運ばねばならないのだから人間的魅力がないといけないのである。耳のいい審査員がずらりと並ぶコンクールを勝ち上がる所から始まるクラシックの演奏家たちとは違う。いや勿論Popsにもコンクールはあるけど傍流だ。それに、デビューしてからが勝負だしな。

ヒカルのように、人間的魅力と音楽家としての多彩な才能がある人間は稀である。奇跡である。そんな希有を持ち出して音楽的才能と人間性には相関があると論じても一般的な結論は導けない。我々はただただ幸運を感謝する他ないのでした。やれやれ。

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