無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「アルバム」という単位において、地味な曲の存在は常に興味深い。シングル曲を寄せ集めただけでは決して聴けないが、人生にこの曲が無かったら随分と味気なかっただろうなぁ、という味わい深い曲が、“アルバム曲”の中には得てして隠されている。

「ULTRA BLUE」でそういう曲といえば“日曜の朝”だろう。まさかこの曲をシングル・カット出来る勇気のあるヤツは居ま…いや居るかな、でも随分敷居が高いのは間違いないと思われる。

しかし、ヒカルが当時同作でいちばん好きな歌がこの“日曜の朝”だった事は特筆に値する。アゲアゲの曲からダウナーな曲まで極彩色に彩られたカラフルな「ULTRA BLUE」の中で、いちばんニュートラルでモノトーン(モノクロ、とはちょっと違うよね)な曲を選んだのは、如何にもアルバムの全曲を手掛けた人らしい。

で、次の「HEART STATION」アルバムでそういうニュートラルでモノトーンで、盛り上がりもしなければカームダウンもしないフラットな曲調の曲はどれだったかというとそれは“Heart Station”だった。今度はアルバムの中でもいちばん地味な癖にタイトルトラックで先行シングルとしても発売されている。なんというか、ニュートラルでフラットでもシングル曲としてリリースできるフックを託せる所まで持って来れたのがヒカルの成長だったといえる。

これが2006年のアルバムと2008年のアルバムの話。2010年の新曲はSCv2d2の5曲で、そもそも地味な曲がない。それぞれが☆型のように突出した曲ばかりで、五角形の中心に来るような曲がなかった。

そして2016年。果たして、そういう曲がアルバムに収録されるだろうか。言うなれば、ヒカルからそういう曲が聴けなくなって8年が経とうとしているのだ。それだけ間があけば人間嫌でも変わる。Popsに対する考え方がまるきり変化しててもおかしくない。

ヒカルは「アルバムを制作中」とハッキリ言った。これは意志である。一曲々々作っていくうちに曲が揃ってきたのではなく、ハッキリ「アルバム」という単位の作品を作っているという意識があるのだ。極端に言えば、全曲先行シングルカットしたとしても絶対に”Single Collection“とは呼ばれない、そういう楽曲集になる、という事だ。

しかも、今回は先に発表してある曲が一曲もない。強いて言えば桜流しがあるが、時期から考えるとボーナストラック的扱いで収録されるのではないかと考えている…んだけど、ヒカルは「ULTRA BLUE」で3年半前リリースという一曲だけ制作時期の異なる“COLORS”を中心にしてアルバムを制作しているので、今度の新作が”桜流し“を中心とした作品になる可能性もまた考慮に入れなければならないか。だとするととんでもなく重い作品になりそうだが。勿論、望む所だ。


いずれにしたって、でも、日曜の朝やHeart Stationのような地味でニュートラルな楽曲は収録される事になるだろう、というのがヒカルの「アルバムを制作中」という言葉を受けての私の予想である。それは、アルバムをただの楽曲集、シングル曲集+αに留めない力を持っている。ただヒカルの場合、Heart Stationのようにシングルとして通用するレベルまで持ってこれてしまう点が異常では、あるのだが。

まぁいい。またこの話題については触れる事になるだろう。まずはシングル曲が発売されてから、だな。

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へぇ、キャンシー発売から15年なのか。わかっちゃいるけど改めて言われるとやっぱり随分昔なんだな。

キャンシーのPVは屈指の名作と言われている。他にはないくっきりとしたストーリーがあるからだが、よくよく考えてみると(みなくても)そのストーリーは歌の歌詞と関係が深いとまでは言えない。ただ、キーワードである"Secret"を軸にして展開しているだけに、無関係ともいえない。なかなかに表現し難い距離感である。

これ、ただの映像として見た場合はどうなるか。短編サイレント映画という趣で、それなりに観れる。ここらへんが他のPVとは違う。独自の作品性が高い。そこに独立した存在である楽曲を持ってきて合体させてある。こういうバランス感覚は、PV制作に歴史に伴うノウハウの蓄積があった故のものか。

ただし、出来上がったPVは、映像単体とも楽曲単体とも異なる"また別の作品"である。

昨今は大体誰かが新曲をリリースするとYouTubeにサンプルを載せるのが恒例となっている。つまり、楽曲とのファースト・コンタクトが映像付きというのも珍しくない。すると、いきおい、その評価はPVという映像単体とも楽曲単体とも"違う何か"に対して下される。果たしてそれでいいものかどうか。

経験からして、"こんなPV見なきゃよかった"と思わせるものが世の中には山ほどある、と言わなきゃなるまい。楽曲のイメージを損なうどころか無視した映像の何と多い事か。つまるところ、映像作家とはクリエーターであって仕事人ではない。仕事は常に自分の撮りたい映像を撮る為の踏み台でしかなく、即ち楽曲もその為の材料の一つに過ぎない。「楽曲の魅力を最大限伝えよう」なんて殊勝な事を考えていたら映像作家にはなれないのだ。キャンシーみたいにバランスのとれたPVは稀なのである。


ヒカルの新曲は、そのPVに加えて、「朝ドラのオープニング映像」も視覚情報として大きなシェアを占める。それどころか、殆どの人にとってヒカルの新曲とそのOP映像はセットで記憶される。PVよりずっと残る。だが、PVと違い、恐らく、ヒカルはそんなところにまで口出し出来る筈もなく。ここは、運を天に任せるしかない。どうか、人の記憶に残らないような、地味で、歌を引き立ててくれる映像である事を願いますよっと。随分と手前勝手な希望だけれどもね。

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