4月からに備えて習慣にしようと朝ドラを毎日録画で観ている訳だが、「あさが来た」は非常にオーソドックスで好感が持てる作風だ。無難過ぎる気もするが朝の連続テレビ小説好きには堪らないだろう。
しかし、なかでも、宮崎あおいの演技力には惚れ惚れする。1人だけ別領域の空気を纏っていて、魅せ方、聞かせ方の美しさは抜きんでている。主役の子もルックスは負けず劣らず、いや宮崎以上に美人なんだがやはりカメラへの映り方、集中力となると一味違う。なのにでしゃばりすぎず主役を食ってしまわないように立ち振る舞うものだから粋である。いい女優に成長したものだな。
この、魅せ方聞かせ方の集中力というのは歌手も同様に大切だ。「歌をどう歌うか」についてはノウハウはあるかもしれないが、「歌をどう聞かせるか」まで考えて歌っているシンガーは少ない。エンターテインメントと言い換えてもいいが、どうやって幾何学の想像力を逞しくするかが重要だ。向こうに立っていて自分の歌声がどう響いてくるかを知らねばならないのだから。
普段ならここからヒカルの歌唱力を絶賛する展開が待ち受けている所だが、正直、ヒカルはこの「聞かせる力」がそんなに強くない気がする。自分がどう思われているかに関して、よくよく理解はしているが、どこか突き放しきれていない感じがするのだ。歌が如何に技術的に正確でも、イマイチ突き抜けてこないのは、どこかそういう、内的な滲み出しを捨てる気がない所が原因な気がする。そこがいいんだけどな。
こういう時にいつも私が言及するのがポール・マッカートニーとオジー・オズボーンだ。両者とも、歌い手としての技量は決して高くない。単調とすら言っていい。しかし、彼らが歌えばメロディーの輪郭がたちどころにリスナーの耳に届くという点で、その声は神がかっている。
彼らの場合才能というか天然というか、もうそうなるしかないという感じなので真似しようとしても仕方がないのだが、歌が届くとはどういう事なのかという原点に立ち戻ろうとする時には必ず思い出すべき存在だ。どう歌おうかばかり考えていて、聞き手にどう聞こえるかについて疎かになった時には是非彼らを鑑みてうただきたい。
勿論、ヒカルの歌は、「ヒカルの側に立とうとする」人には途轍もなく魅力的に響く。その持ち味を消してまで「聞かせる歌」に寄せる必要はない。同調や共鳴はそもそも送るとか受けるとかの区別が無くなっていく果てにある。それが狙いならヒカルの歌には間違いがない。
しかし、宮崎あおいのワンカットワンカットがいちいち「絵になる」のを眺めながら、こういう、仕事がすぐさま“商品”になるような技術も悪くないなと思ったのだ。勿論究極は、杉村春子のような「精密に作り上げられた自然体」なのだけれど、ヒカルの持つ正直さ、率直さ、あけすけさといったファクターからは、確かに離れた所にあって、ヒカルがそういう世界観に拘う必要もニーズもないのだけれど、だからこそ「魅力の多角性」は知っておきたいと思ったのだった。
にしても。玉木宏の、洗練された2枚目ぶりと対局にある芝居のイモっぽさが妙にハマっていて嬉しくなってくるこの感じ、一体誰の企みなのだろう。なかなかに策士というか、上手い落としどころを見つけだしたな、と感じた。
…と、こういう感想を書き始めたら朝ドラにハマり始める兆候である。あわよくば、「とと姉ちゃん」もそうなってくれたらなと。なおスティーヴ・ルカサーはTOTOのギタリストだっ!(何を今更)
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