無意識日記
宇多田光 word:i_
 



LettersはNeverLetGoの続編である。靴脱ぎ捨てて裸足で駆けてゆく舞台は「泳いで/走って」いく所だから"海辺"。"暖かい砂の上を走り出す"その場所だ。「太陽に目が眩んでも」離さなかった手は、"君が居なくても太陽は昇る"と呟くしかない今は状況が変わっている。"夢に続きを"望み"夢の中でも声を聞きたい"というのは現実を「極上の夢で誤魔化」している訳だ。即ち「あなたをうしないたくない」という願いは破られてしまっている。サウンドも哀しげなアコースティックギターの音色で統一されている。ヒカルの連作はAutomaticMovin'OnFirstLoveの3部作だけではないのである。


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小学生の頃友達に「CDの演奏は1ッ1ッの楽曲と歌全部別々に録音して後から合わせてるんだよ」といったら酷く落胆された事がある。「何だか騙された気分」と。僕の方は「なるほど! そうすれば誰か1人がミスしたからって全員がやり直す事はないんだな。頭イイ~」とポジティブに捉えていた(あと、「音って後から"足し算"できるんだ」という事にも感動していた)。

思うに、その友達(や彼と同じ様な感想をもつ人)はCDというのは生演奏の代替物であって、だからそれが生演奏の"正直な"録音でない事に違和感があったのだろう。そういう人達にとっては生演奏が"本物の"音楽であり、だからCDの何倍の値段がするコンサートのチケットが売れるんだなぁ、そう考えたものだ。

僕の様に録音技術を駆使して音を作り上げていく事を"騙された"と感じるより"素晴らしい"と思う向きにとって音楽とは元々部屋の中で聴くものであり生演奏の代替物というよりそれ自体が独立・完結したものだという意識が強いのではないか(小学生の頃はそこまで考えなかったけれども)。

勿論そういう人が作り手側になってもそういう意識はあまり変わらず、出掛けていって外で演奏するより部屋でちまちまと音作りをする様になるのだ。日本でその頂点にいるのが、宇多田ヒカルなのである。

しかし、前述の私の友達の様に、CDの音は生演奏の代わりだと思ってる人はかなり多い。だからなかなかコンサートツアーに出ない宇多田ヒカルに対し、極端な表現になるが"まるで実在のアーティストではないかの様な"印象を漠然ともっている。人前で歌ってこそ一人前、みたいな意識。史上最高売上記録もCDやダウンロードの話だからそういった印象に拍車をかける。


そういう意識のズレみたいなもんを踏まえて光の

> ほんっとに現実的じゃない世界だけど!(笑)

という発言を読み直してみると、彼女はそこらへんのこともよくわかってるんだな、やっぱバランス感覚にたけているな、と思うのだった。


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ロックファンの目からみるとJpopシーンというのはタテの繋がりが希薄だなぁと思う。Jロックに於て継承やリスペクトといった言葉が出てくるのも漸くブルーハーツやX以降か。時々の流行はあるものの、その都度海外の音楽を輸入して成立しており世代間の断絶は解消されない。コレから起こる弊害はミュージシャン寿命の短さだ。前の世代からの尊敬を得られない為に、一度び流行が収束すれば維持・復活するのが難しく消滅する他なくなる。皆使い捨てられてゆくのだ。光が40年後も音楽をやってくれてるというのなら後世代ミュージシャン達のリスペクトは大きな力となる。皆で盛り上げていきたい所だ。


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