たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Self-entanglement of human being

2012-12-21 01:45:49 | Weblog
 完成したモノをよく吟味せずにみんなに喋っちゃうのは勿体無い。
 よーく吟味して、隅々まで確認してから披露した方がイイよね。俺もこれを書いてて、お蔵入りにしてるヤツがいくつもあります(そのうちの一つをこの下にあげてみました)。自分が納得できないモノを公開しちゃったら、自分の価値が下がっちゃうような気がするし、何よりも未来の自分が後悔するのがイヤ?

 いつのまにか完璧主義みたいになっていて、非常に厳しいルールを自分の創ったモノに対して課していたりして。
 実は、前に出てみて失敗して、それからまた次のモノづくりをしたほうが、色んな意味で早いのに、意味があることは?、価値があることは?、この仕事で高い名声を得るためには?、を繰り返して、何もしなくなっていっちゃったりして??

 ただ、それでも、不完全なままで満足するよりも遥かにイイと思うんだよね。
 それは、物理学専攻の人が、物理学よりも、やや厳密さが欠ける、生物学や化学を扱えば、すぐにわかることだけど、やっぱり『えぇ?それはいくらなんでもダメだろ。』ってことが多いし、特に理系なら厳密さを重要視しなきゃだしね。
 だから、自分が満足するまで思考を繰り返してモノづくりし続けること、つまり完璧主義になることって、とっても大事だ。

 でも、それだと、いったいいつになったら、自分の考えが、世に送り出されるんだよ?って思うかもしれないですが、それは簡単です。世の中には提出期限があるし、何よりも「相手」がいることが多い。その相手のことを想えば、自分が満足していなくても、提出せざるをえない。
 人はひとりでは生きていない。必ず誰か相手がいて成り立つのだから、その人に迷惑をかけないようにと、自分の満足ラインを下げる優しさが、自分や自分のチームの考えを世に提出することを促進していくのだと思う。

 優しさとは、相手に対しての単純な物理現象に反するような行為である。
 他人のことを一切考えず、感情を本気で抜いて、理路整然と自分の私利私欲と自分が満足するラインだけを考えて、思考しまくって完璧主義でいるのであれば、それは物理現象であり生きていない。
 頭では恐ろしいまでの理路整然さにおける完璧主義の状態。それに拮抗するように、心では相手に対しての優しさの状態が内在している時、このエンタングルメント(entanglement)はどうなっていくかわからない。

 ・優しさよりも完璧主義が勝ってしまって、冷酷になる。
 ・完璧主義が自分だけに向いていて、相手に対しては自分の優しさに負けて、ココでやめても大丈夫、と思う。

 これが、あの二人の決定的な違いだ。

 俺は、といえば、相手に内在している完璧主義さと優しさのエンタングルメントを、素晴らしいことだと認めているんだよ、ということを伝えるためだけに、そっと見守ろうと心に決めるけど、どうしても、ちょっと、ほっとけなくて、『かまって!』のフリをしてみたりしてね。
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これまでもこれからもカワラナイ方針

2012-12-21 00:56:02 | Weblog
 (実際に以下を書いたのは、2009-04-12 03:42:49
 お蔵入り文章を復活させます。ここで言ってる「新しい問題」について、今ならすぐに指針を立てられるようになってるしね。)

 1つのことを1つのやり方で考え抜くことよりも、1つのことを色々な方法でアプローチする手法のほうが、遥かに難しい。遥かと書いたのは、多角的に物事を見るということは、忘れがちという点も考慮しているからである。
 これは、試験問題を解くときなどの、局所的なシーンのみを言っているわけではない。むしろ、生活の中で、起こりうる問題についてのほうが、重要。試験でそれができたとしても、生活の中でできないのなら、意味がない。

 多角的を忘れないためには、1つの場所に留まり過ぎないことがポイントである。たいていの人にとってはね。
 それは同時に、自分を見失わないことにもつながる。芯が通っているかどうかということもあるけど、それは全員あるとしても、外から見える表現の問題である。本来の自分をきちんと表現するために、たいていの人にとっては、1つの場所に固執してはいけないのである。
 たいていの人にとって、ってことは、例外があるのか?っと言われたら、そりゃもちろん。ただ、それこそ、そういう俺が総体尊敬している人たちは、苦労や、それを超える努力をしているから(謎だったりもするけど(笑))、んなんよりも、いろいろな場所に訪れたほうが楽。

 これから、どんなことがあっても、それだけは忘れてはいけない気がする。本当に楽しむための最低条件は、自分自身を見失わないことだから。

 尊敬しかけていたモノに対して、やっぱ、大したことねーな、って本気で感じたとき、本気でどーにかしてやろーと思う。それが愛であるのか驕りであるのか、優しさであるのかおこがましさであるのかはわからないけど、

 「なーんだ、それなら、全然まだ、いけよ?K君?」
 『んなん、わかってるよ、だけど、俺にその意思がねーんだよ。』
 「(笑)。僕にこうやって言うってことは、意志があることの表れだって。潜在意識の表れでしょ?」
 『そうかもね…。』
 「だって、ここで関係ないやって引き下がるなんて、絶対納得できないんじゃない??」
 『それが、どんな事象でも?確かに。』
 「違うよ。やっぱり、特に、苦手分野だから、納得できないんだよ。あと、感情的なとこだからね。」

 今までの自分自身を否定しなきゃいけないのを回避するためだけではなく、それよりも、もっと強い想いで、深い所にあるんだと感じた。
 
 この件に関しては、この思考で上手くいった。成功している。だから、今回の新しい問題も、きっとこういう風にやっていけば良いんだと思う。これは、分野で転移するという意味での多角的。じゃー、いろいろ試してみるという意味での多角的は??
 それは、もちろん考えるけど、ガチだからって理由で、セオリー依存したいね。
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