たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

チェンジ

2012-07-16 04:55:50 | Weblog
 いつから、仕方が無いよね、って現実を受け入れ過ぎるようになっちゃうんだろう。
 そういう風に諦めることにカッコよさを見出したり、大人っぽさを覚えたりしても、一気に老けこむだけで、何も改善しないのに。

 何歳から、もうカワラナイ?
 17歳?23歳?26歳?30歳?確かにすべて俺にとって意味がある、あった数字で、論理展開上、最終的にそこに落とし込むなら、俺自身が傷つかなくて済むから。
 そんなに完成されちゃってるなら、仕方ないよねー、俺のせーじゃないよねー、ってね。

 例えば、そんなこと言ってられないくらい、変えなきゃいけない瞬間はある。たとえ相手が60歳だろうが70歳だろうが、くだらない誰かの勝手さによって弱者がダメージを受けているなら、そいつらがいくら完成されているからって、変えられないから弱者が受け入れるべき、なんていう結末に俺はしない、どうにか変えなければならない。
 本質的に変えることと表面的に変えることは別だ。そこまで年上の相手に対して教育的配慮をするほど、俺は優しくも無いし、慈善事業をする気も無いし、傲慢でも無い。
 俺の思考力と判断力を持ってすれば、もう、表面的には、どんな相手であっても、正論を通すことができる。俺が問題にしてるのは、そんなくだらないことじゃなくて、本質的に何歳までをより良いスタイルへと変えられる対象とすれば良いかということだ。

 っそ、どこでも変えられるわけじゃない。
 より良くできて、さらにそれを良しと思ってくれる人たちのもとで、出来ることをして、よりよくしていけばイイのだ。

 場所が変わって、持っている言葉が変わる。
 それに少し遅れるカタチで、気持ちまで変わってしまう。

 ほんのちょっと前まで、あんなに怖がっていたのが嘘なくらい、疎遠でも全然大丈夫で、逆に怖くなる。めんどくさくないってラク。なんで、あんなに真っ直ぐだったのかな?、馬鹿じゃねーの俺、って。
 でも、実空間からの寄与があれば、きっととても寂しくなるから、気をつけて。

 『みんなは?』の「みんな」の定義が時間発展するほどにどんどん変わっていって、そこに逆行する反応が追いつかない。
 その相対的な負けは絶対的な勝ちであることがどんなに頭でわかっていても、変わるってことは、やっぱりちょっと、寂しくて、切ないものだと思う。

 コレをあと10回くらいは繰り返していくから、、うーんと、やっぱり、解は、50歳くらいかな。笑
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