たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自分の能力に頼らざるをえない研究テーマ

2012-05-09 16:54:21 | Weblog
 能力のくだらなさを、最近、ホントに感じる。

 あの頃から、とにかく多角的な能力が欲しいと思ってきた。
 コミュニケーション能力も、リーダーシップを発揮する能力も、物理学的な視点で物事を語る能力も、研究遂行能力も、発言力も、英語も、楽しむ面でのスポーツも、複数のことを同時にやる能力も、あの頃よりも、かなり得られたと思うし、昔だったら、この状態ほどあれば、顔をあげて、胸を張って、会える、立っていられる、ってほど、即物的な能力だけは自分自身に残っている。
 だけど、なんにも変っていない。能力を得て、即物的な言葉が変わっていくだけじゃ、何もカワレナイということに、もっともっと早く気が付くべきだったのかもしれない。

 どうでもいいことほど、上手く行く。
 片手間に役に立つことができる誰かには感謝されるし、表面的な笑いをとることも、逆に表面的な笑いを感じて自分が、まるで本当に心から笑っているかのように振る舞うことも、本音を言ってるフリをしてキャラを創ることも簡単だし、研究だって進捗する。
 大事なこと、上手く行って欲しいこと、絶対に失いたくないこと、のほうが、遥かに、失う。この視点に立つと、能力なんて、何の役にも立たない。しいて言えば、能力があればあるほど、忙しくなっていって、大事なことで上手くいってないことを考えなくてイイから、ツラくないくらい。

 今一度、何が大事なのか、どれが聡明な行動であり、どのような視点であれば慧眼であるかを、考えないといけないと思う。
 そこに、考える、つまり物理学的な思考力という能力が必要になっちゃうわけで、結局、能力に頼ってるから、いけないのかな。

 「意志…。。だから、極論を言えば、私が今日、学校行きたくないっていうのも、分子のなんらかの運動によって定められているわけでしょ?、って言えば、なんでも許されそうじゃない?」
 『いやいや、電気信号みたいな感じだけじゃないはずですって。だって、同じような信号を受けても、自分で選べるわけですから。』
 「だから、それだって、何か別の他の環境が支配して分子運動に影響してるわけで、仕方ないことじゃん。だから、言えるんだよ、それを規定する分子の量が何らかの原因で足りなかったので、仕方ありません、って。」
 『うーん、確かに。。でも、まぁ、そうじゃない、、物理現象を省いていったところに、生命現象の本質が隠れているとしたら、それ(意志)を見つけたい、ってのが、この研究のモチベーションなんじゃないですか?』

 そして、それを研究することも、仕方ないからやっているという視点に立つべきだ。
 頑張りたいのではない。努力もしたくないし、勉強もしたくないし、、当然、何かの能力をつけたいわけじゃない。

 知りたいからだ。
 なぜ、あんなにも、不幸なことになっていってしまうのか、ってことを。その理由を発見したい。そして、それに対抗する手段を、発明したい。
 そのためには、仕方なく、物理、化学、生物、地学、数学の、それぞれの力を借りなきゃならない。

 世界中の誰も知らないなら、自分で開拓しようとするしかないもんね。仕方がない、めんどくさいけど、能力をつけなきゃいけないみたい。それがいくら、無駄で、くだらなくて、つまらないことでも。
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続ける?やめる?また始める?

2012-05-09 02:06:37 | Weblog
 イイ状態でも、悪い状態でも、その原因が自分にあるのかそうじゃないのか、ってのは、思ったよりも、判断しづらい。
 これは俺のおかげ、あれは向こうが原因で悪くなった、って思っていても、長い月日が経つと、やっぱり環境のおかげだなって思ったり、これは本当は俺のせーで悪くなったんじゃん、って想いかえしたりする。そして、こういうことの逆ももちろん存在している。

 それがリアルタイムで観えないせーで、落ち込んだりもするし、表面的に喜んでしまったりもする。

 例えば、手をかけすぎてしまったりすることが典型だと思う。
 その人のために、その子のために、教育的な措置として、とにかく尽くしていたけど、結果、それがその人をよりよくすることにはならなかった、という場合。どこかからか、自分が無難に振る舞うためだけのツールになってた、なんてことはよくあると思う。

 崖を登らせることを教育活動に例えるなら、崖のてっぺんから「ほら、さっさと登ってこいや。」ってやることは教育じゃない。空が飛べる、何でもできちゃう、スーパーマンみたいな生徒を想像してはいけなく、ごく一般的な子がこの壁を登ろうとすることを考えなきゃならないんだから、教育には、ある程度、ロッククライミングができるような、手を掴む場所と足場がないといけないと思う。
 だけど、それが度を過ぎて、階段や、ついにはエスカレーターやエレベーターまで創って登らせてしまっては、それもまた教育ではないのだ。

 一生懸命動いても、また考えても、それがその人のためになるかどうかなんて、わからない。
 だから他人のためになるようなことは必要ありません、っと言ってるのではなくって、気をつけないといけないよね、ってこと。

 っで、何らかの失敗、もしくは成功は、能力のある側が、より早く察知できることなのだ。続けるのも、やめるのも、また始めるのも、能力がある側に、そのチャンスの決定権がある(選ぶのは、能力の無い側だけど)。

 だから、そこから目をそむけてはいけない。必ず、失敗も、成功も、真実を真摯に受け止めなきゃいけないことだと思う。
 教育ではね。

 教育では無い、対等な関係である場合、当然それは変わってくるけど、何をもって対等かが難しいから、今日はここまでで思考を止めておこうと思う。
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