俺は、コミュニケーション能力、って言葉がキライ。
っていうと、「まぁ、そりゃ、ないもんね!」って思われたり、「えー、なんで、お前が?」って思われたり、色々ですが、とにかくこういう勝手で曖昧な言葉は嫌いなんです。
これにプラスして、主体性、って言葉も、最近嫌い。「高橋君は主体性があって、いいよねー。偉いと思うし。」みたいなこと言われることも多いですが、『いや、俺、自由に、勝手にやってるだけだし。』って思ったりする。
それに、俺のことをよく知っていれば知っているほど、逆に思うと思う。俺は、かなり流されるタイプだし、エネルギー溢れる感じで主体性を持って外部の環境に飛び込んでいくようなタイプではない。
自分で言うのもなんだけど、俺みたいな主体性って、本当に能力ある人にしか認められない。無能な上司からは嫌われる類いの主体性。感情のベクトルを一番に大事にする主体性で、その上で、とるべき行動を行っているだけなのだけど、俺は、こういう主体性こそが、本当の主体性だと思う。
だいたい、「最近の若者は、主体性がない」とか言ってるヤツに限って、主体性じゃなくって、服従する中での扱いやすさを期待している。他人の能力やモチベーションを信用できてないヤツ。自分が命令しなくても、自分の思い通りに動いてくれる部下が、主体性がある、っと勘違いしている、言葉に騙されている馬鹿な40代以上は、本当に多い。
学校教育のなかで、一番問題だなって感じることの一つに、こうであれ!、っという価値観を押し付け過ぎる部分があると思っている。多くの科目で成績優秀で、部活動をしっかりやってて、友達がたくさんいて元気、そんなのを目指しましょう、みたいなことを教員は言いすぎてはいけないと思う。「これさえやってれば良いの。意味など考えてはいけない、どーせ君らは、バカなんだから。とにかくこれを目指して、覚えて。」
のくせに、いざ進路を決める時、いざ就職活動を始める時になると、手のひらを返したように、「さぁ、あなたがしたいこと、やりたいことは何?ほらほらー、主体性がないんですか?意欲がない若者ですね。そうやって、コミュニケーション能力がないから面接通らないんですよ。」。いやいや、あんたらがそれらを奪ってきたんだよ。
ABCのグループ分けの軸と真面目さの軸が逆行してしまうトリックはここにある。本来、ノリが良くて、しかも真面目、って状態は普通に存在するはずなのに、かなり固定観念を植えつけられているから、モチベーションなんてとっくに失われている状態なのだ。
だから、ノリがイイ子は、そのノリだけで乗り越えようとして、たいした具体的な能力も無いから失敗しやすいし、真面目な子は、今まで言われた通りきちんとやってきて真面目でいたのに、いきなり主体性とか言われて焦りだして、自分には無理だな、って思うわけね。
良いじゃん、成績にバラつきがあったって、部活サボりがちだって、友達が少なくたって。そのまま、ありのままの自分に自信を持ちましょう、自分らしい振る舞いをしましょう、ってことを、家庭や教育で埋めなきゃいけないはずなのに、それが叶わないとなると、今度、それを恋愛や友達関係に求めたりする。即物的な関係でも、表面的にありのままの私のことを認めてくれるなら、それでおっけー、みたいな。
教育みたいな即物的なことで身につけなきゃいけないのは、理想に近づくために頑張りましょう、って本質的なことじゃなくて、即物的なガチの能力だ。だから、ありのままを認めなきゃ何も始まらない。すると、次第に、コミュニケーション能力も主体性も身につく。っで逆に、交友関係(恋愛も含む)では、ホンモノを目指したいわけだから、理想に近づくために一緒に頑張ろうと、そういうモチベーションを互いに高め合わなきゃいけない。
そもそもね、「主体性を持って、行動しろよ!」って言葉自体、自己矛盾してんだよ。
従う、って選択していたら、それは主体性なわけで。
なんとかしなきゃいけないよねーって思うけど、だからって、世捨て人みたいになってはいけない。社会のせいにして、何もしなくてイイわけじゃないのだ。
やっぱり、コミュニケーション能力をつけようとしたり、主体性を持って行動したりする、つまり、頑張ることは、イイこと。ただ、それらが、今、まったくと言ってイイほど無いからといって、自分に対して、卑下する必要はまったくないのだ、ってことを言いたい。
ちなみに俺は、コミュニケーション能力も主体性も、どっちもあるから関係ねーけど。笑
っていうと、「まぁ、そりゃ、ないもんね!」って思われたり、「えー、なんで、お前が?」って思われたり、色々ですが、とにかくこういう勝手で曖昧な言葉は嫌いなんです。
これにプラスして、主体性、って言葉も、最近嫌い。「高橋君は主体性があって、いいよねー。偉いと思うし。」みたいなこと言われることも多いですが、『いや、俺、自由に、勝手にやってるだけだし。』って思ったりする。
それに、俺のことをよく知っていれば知っているほど、逆に思うと思う。俺は、かなり流されるタイプだし、エネルギー溢れる感じで主体性を持って外部の環境に飛び込んでいくようなタイプではない。
自分で言うのもなんだけど、俺みたいな主体性って、本当に能力ある人にしか認められない。無能な上司からは嫌われる類いの主体性。感情のベクトルを一番に大事にする主体性で、その上で、とるべき行動を行っているだけなのだけど、俺は、こういう主体性こそが、本当の主体性だと思う。
だいたい、「最近の若者は、主体性がない」とか言ってるヤツに限って、主体性じゃなくって、服従する中での扱いやすさを期待している。他人の能力やモチベーションを信用できてないヤツ。自分が命令しなくても、自分の思い通りに動いてくれる部下が、主体性がある、っと勘違いしている、言葉に騙されている馬鹿な40代以上は、本当に多い。
学校教育のなかで、一番問題だなって感じることの一つに、こうであれ!、っという価値観を押し付け過ぎる部分があると思っている。多くの科目で成績優秀で、部活動をしっかりやってて、友達がたくさんいて元気、そんなのを目指しましょう、みたいなことを教員は言いすぎてはいけないと思う。「これさえやってれば良いの。意味など考えてはいけない、どーせ君らは、バカなんだから。とにかくこれを目指して、覚えて。」
のくせに、いざ進路を決める時、いざ就職活動を始める時になると、手のひらを返したように、「さぁ、あなたがしたいこと、やりたいことは何?ほらほらー、主体性がないんですか?意欲がない若者ですね。そうやって、コミュニケーション能力がないから面接通らないんですよ。」。いやいや、あんたらがそれらを奪ってきたんだよ。
ABCのグループ分けの軸と真面目さの軸が逆行してしまうトリックはここにある。本来、ノリが良くて、しかも真面目、って状態は普通に存在するはずなのに、かなり固定観念を植えつけられているから、モチベーションなんてとっくに失われている状態なのだ。
だから、ノリがイイ子は、そのノリだけで乗り越えようとして、たいした具体的な能力も無いから失敗しやすいし、真面目な子は、今まで言われた通りきちんとやってきて真面目でいたのに、いきなり主体性とか言われて焦りだして、自分には無理だな、って思うわけね。
良いじゃん、成績にバラつきがあったって、部活サボりがちだって、友達が少なくたって。そのまま、ありのままの自分に自信を持ちましょう、自分らしい振る舞いをしましょう、ってことを、家庭や教育で埋めなきゃいけないはずなのに、それが叶わないとなると、今度、それを恋愛や友達関係に求めたりする。即物的な関係でも、表面的にありのままの私のことを認めてくれるなら、それでおっけー、みたいな。
教育みたいな即物的なことで身につけなきゃいけないのは、理想に近づくために頑張りましょう、って本質的なことじゃなくて、即物的なガチの能力だ。だから、ありのままを認めなきゃ何も始まらない。すると、次第に、コミュニケーション能力も主体性も身につく。っで逆に、交友関係(恋愛も含む)では、ホンモノを目指したいわけだから、理想に近づくために一緒に頑張ろうと、そういうモチベーションを互いに高め合わなきゃいけない。
そもそもね、「主体性を持って、行動しろよ!」って言葉自体、自己矛盾してんだよ。
従う、って選択していたら、それは主体性なわけで。
なんとかしなきゃいけないよねーって思うけど、だからって、世捨て人みたいになってはいけない。社会のせいにして、何もしなくてイイわけじゃないのだ。
やっぱり、コミュニケーション能力をつけようとしたり、主体性を持って行動したりする、つまり、頑張ることは、イイこと。ただ、それらが、今、まったくと言ってイイほど無いからといって、自分に対して、卑下する必要はまったくないのだ、ってことを言いたい。
ちなみに俺は、コミュニケーション能力も主体性も、どっちもあるから関係ねーけど。笑