たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「教育≠洗脳」を思い出して

2012-05-02 01:00:38 | Weblog
 何か発言に行き詰ったとき、「書いてませんでした。」って言い方が、俺は一番嫌い。本に、でも、論文に、でも、教科書に、でも、メールに、でも、なんでもそうだけど、「書いてませんでした。」で思考を停止させるな、って思う。(まぁもちろん、論文でその実験系の細かい条件なんかが書いてない場合は別だけどね。)

 そのイイワケをするなら「そこまで考えてませんでした。」「それが重要だと思わなかったから、追究しなかったです。」なら納得できるのに、それを「私は全部読みました、どこにも書いてないんだから、仕方ないじゃないか。」ってやるヤツは、たいてい、能力が無いし、バカだなって思う。

 ≪書いてませんでした。≫
 『そりゃ、そんなこと、書いてあるわけないじゃん、自分で考えてみて。』
 ≪えー?≫
 『そんくらい、自分で考えてよー。簡単じゃん。』

 って会話、予備校で教えてる時に何回もした気がする。高校生以下は仕方ないと思うんだけどさ。

 本質を知りたい(発見)、役に立つ何かを見つけたい(発明)、って思った時に、堅いこと(上の場合だと、教科書とか論文)ベース、堅いことありきだと、楽しくない。それとも、本質を知りたい、役に立つ何かを見つけたい、って思ってないのかな?したら、さっさと今からでも文系に行けよ、って理系には思う。

 論文や学問領域が自然現象を規定しているわけじゃなく、自然現象に即して論文や学問領域が存在するということを、本当の意味で知っておかないといけないと思う。得意不得意は仕方ないとしても、その守られたカタチのなかだけで議論していたいのなら、本当に文系に行った方が楽しいと思うんだよね、って、そんなつもりないのに、文系攻撃してるけど(笑)。

 っていうかね、漠然とやりたいこともなく、政治的な考え方のくせに、目上の人が間違ってるときに間違ってるって言えないくせに、わざわざ、小難しい割にみみっちいことしかしない理系にいる意味がわからん。コスパー悪すぎっしょ。

 っで、コミュニケーション能力無いから、とか、わけわからない曖昧な価値観持ち込むんでしょ?
 正直に言えや、Cグループだから、せめて、堅い、真面目な感じでキャラ作りしていたい、って。笑

 だから、やっぱ、環境に依って、洗脳されているようじゃダメなんだと思う。
 結局、俺は洗脳なんてされないわけだし。

 「ありゃ、ダメだよ。っていうか、うん、ダメなの、すぐわかる。よくあの状況で洗脳されなかったね?」
 『まぁ、そりゃ、他は違うだろうな、って思うじゃないですか。』
 「えー、そーぉ?」
 『ちゃんと友達の話を聴くことと、前の価値観を保っておくこと、が洗脳させないような働きを持たせるっていうか。。』

 俺だって、環境に依存しないわけじゃないし、洗脳だってされかける。
 だけど、外部の人の意見が、洗脳までもっていかせないのだ。

 それは、『書いてねーし。』で思考を停止させず、自分が知りたいことだけを純粋に追究する、っという価値観に基づいているから。だからこそ、分野なんかで規定されず、外部の人の意見も重要な意見として、内部の意見と対等に扱える点にあるのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丘陵からの寂しき展望

2012-05-01 02:17:27 | Weblog
 「仕方ない」ってことのほとんどは、その人を取り巻く、環境や外部の要因に依るものだ。
 集団の言葉は同じようなもんなのに、ある環境では対応が手厚く、ある環境では野放し状態、ってのは、よくあることだし、言いだしたらキリが無い。教育だけに限れば、突き詰めていけば必ずと言ってイイほど、親の職業や年収、親戚内の意識に依っているから、なんとも言えないところだ。

 ただ、約3年間で偏差値を10ずつ上げ続けてきた俺から言わせると(笑)、ある一定以上の水準で暮らしている人(ほとんどの日本人)にとって、環境は自分自身で選ぶものだ、っと思っている。
 タイミングや年齢、過酷すぎる環境などの要因で、今の段階では環境を選べない人もいると思うけど、ほとんどの幸せな日本人は、自分で自分の環境を選べる。与えてもらっている教育や制度に不満を言う前に、自分からより良い環境を見つけようとしろって思うし、そのような努力を、社会はもっと認めていく必要があると思う。
 よーするに、石の上にも三年、って諺を、本当は動くのが怖くて動かないだけなのに、キレイゴトみたいに使いすぎてはいけないってことね(俺はこの諺は、かなり的を射ていると思うけど)。

 そのためには、確固たる想いを持っていないといけない。こうでありたい、とか、こうしていきたい、とか、そういうのが、ぼんやりと、しかし強い想いとして存在していない限り、外部に対してオフェンスしていくことはできない。
 やりたいこと、したいこと、アイディアがあったり、試してみたいことがあったり、伝えたいことがあったりしたら、自分から行動する。それは、色んな意味で、かなりのリスクを背負うことだけど、それ相応のベネフィットも沢山ある。

 自分から行動をし、環境や周囲を劇的に変えようとすることの一番のメリットは、手を打たなくて済むってことだ。
 これで、こんなもんでしょ、っというような諦め方をしなくて済む。こんなもんでしょ、って自分に対して、自分の理想に対して、諦めないことが、自分の一番の強みであり、一番の良さだと思う。

 だから、理想にはならない、って確信を持てた時に、一気にやめられるのもメリットかもしれない。
 哀しいメリットだけど、俺が決めてるわけじゃないし。

 環境を変えれば変えるほど、良くなれば良くなるほど、多くの能力が得られて、向上する。そのたびに思うことだけど、本当の意味で、これを望んでいるわけじゃない。
 やっぱり、能力なんてどうでもイイ、っと、一人、自分自身に対して思っている。

 難しいのは、本当の願いは能力が既定しているわけじゃないことだ。なのに、即物的な言葉や能力が得られ、本当に欲しいモノが失われると、『どーだ、自分からじゃどーにもできないだろ?』とか『まだその位置にいるなんて、大変だね。』って、完全に即物的になることができちゃうから、また厄介なのだと思う。しかも、それを、社会は正しいと評価しなくても、世間は正しいと評価するから、余計にね。

 だとしたら、することは、ただ一つ。
 インタラクションをなるべくしないで、良い方向に持っていくことだと思っている。

 これまで、その手法を取ってきたし、これからも。

 ただ、初めて、一番大事な気持ちに嘘はつかなかったし、後回しにもしなかった。それだけでも、進捗しているかな、って思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする