たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

丘陵からの寂しき展望

2012-05-01 02:17:27 | Weblog
 「仕方ない」ってことのほとんどは、その人を取り巻く、環境や外部の要因に依るものだ。
 集団の言葉は同じようなもんなのに、ある環境では対応が手厚く、ある環境では野放し状態、ってのは、よくあることだし、言いだしたらキリが無い。教育だけに限れば、突き詰めていけば必ずと言ってイイほど、親の職業や年収、親戚内の意識に依っているから、なんとも言えないところだ。

 ただ、約3年間で偏差値を10ずつ上げ続けてきた俺から言わせると(笑)、ある一定以上の水準で暮らしている人(ほとんどの日本人)にとって、環境は自分自身で選ぶものだ、っと思っている。
 タイミングや年齢、過酷すぎる環境などの要因で、今の段階では環境を選べない人もいると思うけど、ほとんどの幸せな日本人は、自分で自分の環境を選べる。与えてもらっている教育や制度に不満を言う前に、自分からより良い環境を見つけようとしろって思うし、そのような努力を、社会はもっと認めていく必要があると思う。
 よーするに、石の上にも三年、って諺を、本当は動くのが怖くて動かないだけなのに、キレイゴトみたいに使いすぎてはいけないってことね(俺はこの諺は、かなり的を射ていると思うけど)。

 そのためには、確固たる想いを持っていないといけない。こうでありたい、とか、こうしていきたい、とか、そういうのが、ぼんやりと、しかし強い想いとして存在していない限り、外部に対してオフェンスしていくことはできない。
 やりたいこと、したいこと、アイディアがあったり、試してみたいことがあったり、伝えたいことがあったりしたら、自分から行動する。それは、色んな意味で、かなりのリスクを背負うことだけど、それ相応のベネフィットも沢山ある。

 自分から行動をし、環境や周囲を劇的に変えようとすることの一番のメリットは、手を打たなくて済むってことだ。
 これで、こんなもんでしょ、っというような諦め方をしなくて済む。こんなもんでしょ、って自分に対して、自分の理想に対して、諦めないことが、自分の一番の強みであり、一番の良さだと思う。

 だから、理想にはならない、って確信を持てた時に、一気にやめられるのもメリットかもしれない。
 哀しいメリットだけど、俺が決めてるわけじゃないし。

 環境を変えれば変えるほど、良くなれば良くなるほど、多くの能力が得られて、向上する。そのたびに思うことだけど、本当の意味で、これを望んでいるわけじゃない。
 やっぱり、能力なんてどうでもイイ、っと、一人、自分自身に対して思っている。

 難しいのは、本当の願いは能力が既定しているわけじゃないことだ。なのに、即物的な言葉や能力が得られ、本当に欲しいモノが失われると、『どーだ、自分からじゃどーにもできないだろ?』とか『まだその位置にいるなんて、大変だね。』って、完全に即物的になることができちゃうから、また厄介なのだと思う。しかも、それを、社会は正しいと評価しなくても、世間は正しいと評価するから、余計にね。

 だとしたら、することは、ただ一つ。
 インタラクションをなるべくしないで、良い方向に持っていくことだと思っている。

 これまで、その手法を取ってきたし、これからも。

 ただ、初めて、一番大事な気持ちに嘘はつかなかったし、後回しにもしなかった。それだけでも、進捗しているかな、って思う。
コメント
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