小学校高学年の頃、放送室にいるのが好きだった。
なんていうか、メインとは別の場所、みたいなのを持ってるのが好きだったし、それを先生から指摘されたことを今でもよく覚えている。
中学でも放送室に入れる権利を持っていて、変な話、ちょっとした逃げ場所だった。クラスの誰とも喋る感じじゃなくても、放送室にいってれば、全体に対してのイイワケになる気がしたし、即物的には独りぼっちにならなくて済むからラクだった。
逃げ場所が、だんだん放送室だけじゃ満足できなくなってきて、ひとつ、またひとつ、って、増えていった。高校の頃からは、ケータイもあったし、いつでも俺は他にも場所なんていくらでもあるんだぞ、って部分を持つことが出来たし、実際に居場所なんてどこにでもある状態が殆どだ。
今では、本当にいくつも、そういう場所を持ってしまっている。
どんなことをしても、許してくれる、叱ってくれる、助けてくれる、最終ラインの仲間が、家族を含めて2つあるし、何も緊張せずに戸を叩くことができる研究室の数は、他の大学院生達よりも遥かに多い。
そんな感じを羨ましがってくれる人もいるし、自分の強みであるとも思っているけど、保険をかければかけるほど、本当の意味での深さは得られないことにも気が付いている。
結局、みんなに、どーせ他の場所もあるんでしょー?、って思われちゃうと、ホンモノの関係を築きたい時には弊害でしかないし、実際に即物的には存在してしまっているから、あんまり弁解の言葉も思いつかなくて。
即物的に独りぼっちにならないように準備をすればするほど、本当の意味で独りぼっちになっていくのかもしれない。
っま、大切に思っている、想いたい人であればあるほど、それくらいの解析力は持っていて欲しいなって思ったりしちゃうけど、そんなの求め過ぎ。
自分では、重要度の高低差に対して明確な指標を持っているつもりだけど、相手には伝わりにくいし、実際に放送室に行ってしまうとその明確さに若干のブレが生じる。それが転移点を超えるほどではないけど、上手く行っていない時ほど、放送室をメインにしてしまいたい衝動に襲われたりもするのだ。
真面目だから、実際にそんな風になったことは、一度もねーけどな。笑
でも、いくら実質的にそうならなくても、そういうのが本当の意味での独りぼっちにしていくんだとも思う。
だから、放送室みたいなとこに、逃げないで。
なんていうか、メインとは別の場所、みたいなのを持ってるのが好きだったし、それを先生から指摘されたことを今でもよく覚えている。
中学でも放送室に入れる権利を持っていて、変な話、ちょっとした逃げ場所だった。クラスの誰とも喋る感じじゃなくても、放送室にいってれば、全体に対してのイイワケになる気がしたし、即物的には独りぼっちにならなくて済むからラクだった。
逃げ場所が、だんだん放送室だけじゃ満足できなくなってきて、ひとつ、またひとつ、って、増えていった。高校の頃からは、ケータイもあったし、いつでも俺は他にも場所なんていくらでもあるんだぞ、って部分を持つことが出来たし、実際に居場所なんてどこにでもある状態が殆どだ。
今では、本当にいくつも、そういう場所を持ってしまっている。
どんなことをしても、許してくれる、叱ってくれる、助けてくれる、最終ラインの仲間が、家族を含めて2つあるし、何も緊張せずに戸を叩くことができる研究室の数は、他の大学院生達よりも遥かに多い。
そんな感じを羨ましがってくれる人もいるし、自分の強みであるとも思っているけど、保険をかければかけるほど、本当の意味での深さは得られないことにも気が付いている。
結局、みんなに、どーせ他の場所もあるんでしょー?、って思われちゃうと、ホンモノの関係を築きたい時には弊害でしかないし、実際に即物的には存在してしまっているから、あんまり弁解の言葉も思いつかなくて。
即物的に独りぼっちにならないように準備をすればするほど、本当の意味で独りぼっちになっていくのかもしれない。
っま、大切に思っている、想いたい人であればあるほど、それくらいの解析力は持っていて欲しいなって思ったりしちゃうけど、そんなの求め過ぎ。
自分では、重要度の高低差に対して明確な指標を持っているつもりだけど、相手には伝わりにくいし、実際に放送室に行ってしまうとその明確さに若干のブレが生じる。それが転移点を超えるほどではないけど、上手く行っていない時ほど、放送室をメインにしてしまいたい衝動に襲われたりもするのだ。
真面目だから、実際にそんな風になったことは、一度もねーけどな。笑
でも、いくら実質的にそうならなくても、そういうのが本当の意味での独りぼっちにしていくんだとも思う。
だから、放送室みたいなとこに、逃げないで。
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