たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

不便と不幸

2016-10-09 04:20:35 | Weblog
 自分に何かが足りない事を不幸に感じる者は多い。
 そのなかでも、「カネがない」ということを不幸の代表格として挙げる者が多く、何かの決定に対しても「だから、よーするにカネがないってことなんでしょ?」と問題を矮小化することに躊躇のない人が多い。

 この世の中では、「存在することそのもの」と「エネルギー」と「情報」は、それぞれ等価である。ゆえに「カネがない」のであれば、その分、心持ちをしっかりするとか、有益な情報を収集するとか、それらの絶対量を恒常できるように友達や周囲に優しくするとかすれば良い。

 そう、みんなかなり勘違いしているが、「実質的に困る」ということと「不幸」であるということは、必ずしもイコールではないのだ。

 確かに、何かが足りないという事は、困る事が多いだろう。たとえば、何年も同じ研究をしていて、論文が一本もなければ、困ることには困るだろう。でも、それは、不幸と直結されるわけではない。圧倒的最大多数である、論文の有る無しで研究の評価ができると思っている研究社会に住んでいるクズたちに、無能だと思われるだけだ。大した事では無い。
 安心して欲しい。少なくとも俺は、そういう手抜きな評価の仕方をしないできちんと中身を観るし、感情的にはそもそも能力で評価するなどという事は一切しない。そして、そう主張しまくっているこのブログは、何も更新しなくても毎日200人以上もの人が観てくれている。もちろんすべてが賛同者だとは言えないが、7割以上は賛同している心も持っている人だろう。確率の問題なだけだと俺は思っているし、きちんと評価してくれる人とだけ付き合っていっても成り立つ。

 めんどくさくて、困る事が多いのは事実。でも、それは、不幸であるとは限らない。心の貧しさと物質的な貧しさは、(少なくとも分かりやすくは)時間的に乖離しているのだ。

 だが、ロジックはここでは終わらない。「不便と不幸は違う」と帰結できるほど、、そこまで単純ではない。
 圧倒的大多数が、あらゆるズルをしているおかげで手にしている便利さを目の当たりにしながら、自分が悪いわけではないのに確率的な要因のみで、自分だけが不便であれば、時間が経過すればするほど、不便が不幸へと変わっていくだろう。どうして、自分だけが論文がでないのだろう?ってね。
 それに、時間のパラメータだけではなく、不便の度合いについてのあるパラメータに関して極限値をとれば、不便と不幸はイコールになる。どうして自分だけが両親がいないのだろう?どうして自分だけがこんなにめんどくさい手続きを繰り返さなくては「普通の暮らし」が確立されないのだろう?ってね。

 何かを誤魔化そうとして、実質的な便利さを手に出来た者と、それを偶然手にしておらず困っている者。確かに俺の目の前にいた両者。前者は弱者が虐げられる姿を見て観ぬフリをし、後者は単にその義務とシチュエーションが存在していないだけ。ならばと俺は、ある瞬間に、後者を選んでいる。でもそれは、決して後者がクズではないことの証明にはなっていない。(前者がクズであったかどうか、今の俺の思考力では、わからない、としか言えない。でも、クズであろうがそうじゃなかろうが、あの時の俺の選択に後悔はない。哀しい気持ちに狂いはないから)

 しかし、クズでないpossibilityを有しているというのは、それなりに尊いことなのかもしれない。
 いずれ、その不幸を不便に戻し、不便を有用さに変えることができた未来がやってくるだろう。それでも、貴女が、あらゆるモノゴトが(今の貴女よりも)不便な人への思慮に深い存在であって欲しいと、俺は小さく願っている。それが、幸福へと繋がっていると想っているから。
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