たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

好き

2015-08-01 02:12:53 | Weblog
 自分じゃぁ絶対にできないと思っていることが、もしかしたら自分ならできるかもしれない、と思った時点で、人生は変わる。
 そういう意味で、やっぱり、能力の絶対量は関係ない。自分ならたぶん東大に入れるだろうと思って実際に東大に入ったヤツよりも、自分は絶対に一冊の本も読破できないと思い込んでいて、ある瞬間に突然、もしかしたら自分も読書を楽しめるようになるかもしれない、と手順を踏んだ単なる読書家なヤツのほうが、、価値がある、とまで言い切ることはできないけど、少なくとも俺は後者のような人材のほうが圧倒的に怖い。

 できない、と思っていたことが、できるかもしれない、に変わり、そこに努力を積み重ねたら、できるようになった。
 この経験こそが、向上心という気持ちを高めるうえで、最も重要なのだ。なぜなら、こういう瞬間を繰り返していくことでしか、思考力は高められないからだ。

 できるかもしれない、という単なる可能性の時点で、どれだけ努力できるか?その不確定な事象に対して、自分がどれだけ労力をかけられるか?、と自分自身に対して投資するギャンブラーな気持ちを、どうか忘れないで欲しい。

 ゆえに、自分では絶対にできないと思っていることに、どんどんじゃんじゃん取り組むべきだ。そのなかで一つでも、できるかも?、と思えた時点で、人生は圧倒的に輝きだす。
 これが俺の思う長生きの秘訣。常に新しい楽しそうなことをしている人間は、新鮮だから時間が長く感じる。長生きしたいなら、ルーティンワークを繰り返すことに誤魔化しを覚えないで、どんどん自分が不可能だと勘違いしている新しい楽しそうなことをやり続けよう。そうすれば、こんなにも一日が長く感じてる、って思える。

 そして、こういうこと言うとすぐに、じゃぁお前はどうなんだよ?、と言ってくるバカがいるので、先に言い返しておくが、俺がどれだけ自分が居心地が悪いところにあえて行って戦い続けているか?ってんだ。
 自分の足を安全地帯に置いていながら、ちょこっと他分野を齧ったりしているだけの奴や、もしくは、別に俺はそんなことしたいわけじゃないし、などと閉鎖的な社会をそのままにすることを肯定化し、自分勝手な自分たちを継続させていくことで細々と無難に生き延びようとしかしていないヤツが、偉そうに俺の能力に関して示唆する権利は、本来一切ない。

 こちらが新しい物事を創ろうとしているときに、足を引っ張ってくるのは、いつだって既成概念だ。そのくだらない伝統に、尊敬などという場違いな言葉を飾って、DKEになっている自分に気がつかない態度は憐れである。

 ただし、勘違いされる前に急いで付け足さなくてはいけないが、俺は、そのような、不器用で、負けず嫌いな、ナメていない態度のロバストさが、大好きなのだ。なぜなら、それは、できない!ということをきちんと認知していることと同義であり、向上の方向性さえ見失わなければ、凄まじい楽しさがそこに待っているかもしれないからだ。

 そう、多くの研究者や大学院生は、「どうせ、自分1人がどうやったって、この分野のこの慣習は変わらない」と、小さな世界のさらに小さなセクションの中でチマチマ諦め切っている人間が多すぎるが、そこをもう一歩考えて、「いや!、自分なら変えることができるかもしれないぞ!!」と思えた瞬間に、人生は変わるのである。
 「理」論に強い人間は、「理」想を強く思い描けや。「実」験ができる人間は、それを現「実」にしてみろや。

 その瞬間、私が私じゃないみたいになる。
 ちょっとした変化も、好きなことに対してアピールしたくなるし、好きなことを好きだと叫べるようになる。普段勇気が無くても、好きすぎておかしくなってしまって、そんなことを本当に言って、笑われながら、またそのやり取りをする笑顔が好きになる。

 どんな言葉の束縛も分野の慣習も領域の柵も、俺の目的には、いっさい関係ない。
 敵は誰かじゃない!!敵は解明されにくい自然現象そのもの、何かの行き違いはいつだって残酷な物理現象であることを、常に忘れないでね。

好き / 西野カナ
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