たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

生命とはロマンティックである?

2014-11-27 01:48:26 | Weblog
 生命は、「ロバストネス」と「可塑性」の2つの性質を同時に満たしていると考えられている。

 ロバストネスとは、よーするに、取り巻く環境が変わっても本人は変わらない、ということであり、可塑性とは、よーするに、取り巻く環境に合わせて本人も柔軟に変化していくということである。
 言い換えれば、ロバストネスは頑固、可塑性は八方美人、みたいな感じかなぁ。もっとちゃんと理解してる人に怒られそうだけど。

 確かに、生命はそういったことに溢れている。顕微鏡で観ていれば、そうまでして分裂したいの?、てこともあるし、こんなんで過剰に反応してしまうの?、ということもある。それは、日常で人々を観るのと同じで、そうまでして自分(たち)を貫きたい?、そんなに環境に流されなくちゃいけない?、と感じることもままあるだろう。

 ただ、一個体、もしくは一細胞だけで考えるんじゃなくて、2体系以上の集団としてどうか?、時間スケールを加味したときにどうか?、ということは別問題な気がする。
 なんていうか、運命は決まってる、みたいなことってあるよね。この人とはいつかどこかでぶつかる運命、ならば、遅かれ早かれ、どのような経路を辿っても、相互作用(コミュニケーション)してる限り、ぶつかることがロバストなわけで、だったらさっさとぶつかって、絶交してしまったほうがいい、みたいな。

 あらゆる環境変動をヤラセて、それに対して可塑的に振る舞っているように見えても、いつのまにか決まった経路に落ち込んでいるロバストネスの存在が感じられるとき、それが人にとっての、いやその生命にとっての、その細胞集団にとっての、運命である、と人は考えがちであると想う。

 でも、俺は、生命現象特有の論理体系というのは、少なくとも、ロバストネスや可塑性があること、ではないんじゃないだろうかと思うのだ。おそらくロバストなことも可塑的なことも、確実に物理現象として語れる。というよりも、ロバストネスと可塑性というのは、非平衡や非線形、もしくは多種や多粒子の特徴として、非常にありきたりな物理現象なのではないかと思うのだ。

 例えば、レンツの法則って、ロバストっぽいし、可塑的っぽい、と思うんですけど、どう?
 磁場の変化を妨げる向きに電流が流れるその瞬間は可塑的で、磁場がやってきたのにも拘らず変動が停止してしまえばすべてを受け入れ何も変わらずロバストネス。電流が流れるってのは非平衡定常状態なわけで、、なんとなく非平衡状態では、ロバストネスも可塑的なことも、案外、ふつーにあるんじゃないのかなぁ、と。

 そ、だから、生命らしさ、というのは、ロバストネスや可塑的を超えた先にある、明らかにエネルギー的に損をする状況でもそちらに行ってしまうような意志、みたいなことを、みんな言いたいんじゃないかなぁ、っと思ったりするのだ。
 「環境変動に対して、すべての粒子が生じた流れに流されていったり、すべての粒子がその流れに左右されなかったりするのなら、それは生命っぽくない。ゼロイチのスイッチのような2wayで、なぜか、多くの粒子とは逆側に行動を取ろうとしてしまういくつかの粒子の存在があり、しかもそれらがポアソン分布に従わないとき、とても生命っぽいし、生命独特な現象なのだと思う」

 もっとも「実」に賢く、もっともノリが良くて、もっとも性格の悪い、俺の尊敬するフィールドワーカーの言葉を借りると、この直感は、あたってると思うでぇー。直感ちゅうのは結構あたるんですよー。
 確かに、ケミカルもしくはデジタルに構成していった擬似生命と、自然界にいる本当の生命の違いは、なんとなくこういうところにある気はする。まぁ、それがあってようがあってまいが、それ自体は(俺にとっちゃ)どうでもイイですが、少なくとも理学的には、そういうことが明らかになりうる実験系にフォーカスを当てていたいな、と想うわけです。

 「大丈夫に観えてるの?最近、私、おかしくない?変でしょ?そう観えてないの?」

 それは、あの人なりの精一杯の悲痛な叫び声だったのかもしれない。俺は、その声に向かって、どんな困難があっても、どんな状態であっても、まっすぐに走っていかなくちゃいけなかったのだと思う。
 でも、実際に、あのとき、そうできなかった。それは、世界中で俺だけが、あの人も知らない、あの人自身が引き起こした運命を事実として知っていたから、という大義名分が成り立っていた。思いきって倒れながらも俺が走ったなら、あの時点でホンモノが得られたかもしれないなどと傲慢なことはそこまで思わないが、仮にその時点でホンモノだと思えるものが得られたとしても、この運命を享受できるだけの可塑性を有していなければ、結局はあの人にとってのホンモノを得られないことがロバストだと思ったからだ。そして、そのゲームをあの人自身が引き起こしていることを、蚊帳の外だから、きっと知らない。

 『例えばさ、日本人がよく好きな物語のパターンとして、相手のことを思うがゆえに相手から離れました、でも、ある環境変動が偶然に起こって、運命的に結ばれました、誤解が解けましたっていうのがあるじゃん?』
 「わかります、そんなことは、現実には絶対にあり得ない、って言いたいんでしょ?」
 『その通り。現実には、相手のことを思って離れるという選択は、ただ単純に、一生決別する、ということに過ぎない』
 「そこで、それでも自分はその人と離れたくない!、ってほうが、イイですよね」
 『Exactly!そうそ、そのほうが、運命なんかよりも、よっぽどロマンティック』
 「なんで英語で言うんですか?笑」
 『なんとなく笑』

 相手のことを思うがゆえに離れるという環境適応性を選択したくせに、くっつくことがロバストネスというような系全体からの要請を自分勝手に期待するよりも、それらをすべて超えて、まっすぐ自分の意志を貫いて、気持ちを確認してみたほうが、生命らしいかどうかは定かじゃないけど、少なくとも人情的であるし、ロマンティックであると思う。

 過去は変えられないなら、現在と未来に賭けるまで。

 今できることを考えて、実行し続ける。これに尽きるのだ。
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