スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

たちあおい賞争奪戦&ひとつの結論

2013-01-22 18:41:57 | 競輪
 場合によっては雪で順延という事態も危惧された静岡記念の決勝ですが,それは杞憂で日程通りの施行となりました。並びは鈴木ー菊地-山田の北日本,神山-新田-林の東日本,藤木ー松岡の西日本で深谷が単騎。
 スタートは松岡が取って藤木が前受け。神山が3番手,鈴木が6番手,最後尾に深谷で周回。まず鈴木から上昇すると,残り2周のホームで藤木があっさり引いて鈴木が前に。これを神山がバックで叩くと打鐘から先行。4番手が内の鈴木と外の深谷で併走に。引いた藤木が発進するとバックで深谷も併せるように発進。しかし両者の捲りが届く前に新田が満を持して番手発進。追走した林とのマッチレースになり,4分の1車輪だけ凌いだ新田の優勝。林が続いて南関東のワンツー。展開上,脚を溜めることになった鈴木が4分の3車身差の3着。
 優勝した静岡の新田康仁選手は2010年の伊東温泉記念以来となる久々の記念競輪11勝目。静岡記念は2007年に優勝があり,6年ぶりの2勝目。なかなか本人が思うような成績を残せていなかったのですが,昨年の暮れあたりから復調を感じさせるような内容のレースが多くなっていました。ここは地区は違っても神山が頑張ってくれたことが大きかったとはいえますが,まだ上位での活躍が望める選手であるということは,間違いないと思います。

 自転車の場合について記述しているのは,再三にわたっていっているように,それが人間の身体と同様に,複数の物体によって組織されているひとつの物体だからです。つまりこれは人間の身体の場合について考えるための手段にすぎません。別の一面の自転車についての結論を人間の身体に対して当てはめるならば,もしも人間の身体を構成している部分に何事かが生じることによって,部分の合一のあり方に変化が生じるなら,これはその人間の身体の本性に変様が生じたというのと同じ意味になります。よってそのことの観念が,人間の身体の観念を有する限りでの神のうちにあるということになります。しかるに第二部定理一三からして,人間の身体の観念を有する限りでの神というのは,その人間の精神にほかなりません。よって,もしもある人間の身体のうちに何事かが生じ,そのことによってその身体そのものの本性に何らかの変化が生じた場合には,その人間の精神は,その生じた何事かを認識するという結論を得ることができます。第二部定理一二の新しい意味に則していうなら,概念と知覚とを明確に分けた上で,人間の精神は,この場合には自分の身体の中に起こったことを知覚するということになるでしょう。
 ただし,この結論というのはあくまでもひとつの結論にすぎないのであって,僕はむしろ強力に推すことをためらわざるを得ないような結論です。その理由のひとつは,これはあくまでも別の一面なのであって,人間の身体を構成する部分に起こることが原因で,その身体の本性に変化が起こることはその結果であるとみなした場合には成立しないという点にあります。この点に関しては自転車の場合だけで説明し,人間の身体に該当させるような考察は行っていませんが,自転車の場合に妥当することは人間の身体にも妥当するとしたら,こうした結論になるということは,これ以上の説明は不要かと思います。
 さらにいえば,人間の身体を構成する部分の合一に変化が生じるということと,人間の身体の本性に変化が起こるということを,同じ事柄の別の面であると解釈したからといって,必ずこのような結論を得られるとも僕には思えないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする