スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

残したかったもの&放棄

2013-01-31 18:44:58 | NOAH
 馬場は全日本プロレスをひとつのファミリーと考えていて,そのファミリーを貫く制度は戦前の家父長制であったというのが僕の理解です。もちろんそのとき,この制度における戸主に該当するのが馬場本人であるということが含意されているということはいうまでもありません。
                         
 そうであるならば,戸主である馬場は,自分が築き上げたもの,あるいは自分が残したものを,だれかに引き継がせる必要があったと考えられます。無論,馬場の不在と同時に全日本プロレスが終焉するというのもひとつの道ではあったでしょうが,僕は,馬場は仮にそうなってしまうのであればそれはそれで仕方がないと割り切っていたとは思いますが,できることならば全日本プロレスの存続を願っていただろうと判断しています。
 このとき,それを引き継ぐもの,要するにこの制度においては馬場の長男にあたる人物ですが,この人物が相続するべきものとして,ふたつのものがあったと僕は思います。ひとつは全日本プロレスという会社そのものです。そしてもうひとつは,馬場が展開してきたプロレススタイルです。僕がここで馬場のプロレススタイルといっているのは,馬場自身がフレッド・アトキンスから習得したレスリングの基礎も含みますし,あるいは後年の馬場がキャッチフレーズとした,「明るく楽しく激しく」を標榜するプロレスも含みます。いい換えればそれは,馬場が自分自身で,またプロモーターとしてリングの上で展開してきたすべてのものという意味です。
 馬場は全日本プロレスという会社についてはあまり多くのことばを残してはいません。ただ,晩年は明らかに多様化するプロレススタイルを憂いていたようで,プロレスとはこういうものでなければならないということに関しては,それ以前より明らかに多くのことを語っています。それはおそらくそれを残してほしいと願っていたからだといえるのではないでしょうか。たぶん馬場は,仮に全日本プロレスという団体が消滅することになったとしても,自分が信じたスタイルさえ残るなら,それでよいと考えていたのだろうと僕は推測しているのです。

 それでは,ある人間の身体の本性が変化することと,その人間の身体を組織する部分の合一のあり方が変化するということを,同一の事柄とみなすための条件というのは,具体的にはどのようなものであると考えればよいのでしょうか。これは非常に難解な問いであると思います。
 再び十全な観念と真の観念との場合で考えてみます。神の無限知性のうちにXの観念があるという場合,Xの十全な観念はXの真の観念であるという言明,また,Xの真の観念はXの十全な観念であるという言明は,誤謬ではないけれども単に命題の内容にだけ注意するなら,いずれも偽の命題であるというのが僕の解釈です。ただ,この場合には,Xの十全な観念とXの真の観念とを同一の事柄であるとみなすための条件が何であるのかということは,わりと容易に理解することができます。いうまでもなくそれは,その十全な観念も真の観念も,神の無限知性のうちにあるXの観念であるという点です。したがって,単にその関係という観点だけからいうならば,この条件というのは,本性と特質との関係で同じように命題について考察したときに導出した結論,すなわち特質は同じ本性から必然的に導かれる限りにおいて,同じ事柄の別の側面であるといえるということと,パラレルな関係にあるといえるでしょう。
 このことから推測できるのは,身体の本性の変化と,身体を組織している部分の合一の変化の場合にも,これらとパラレルな関係に当たるものが命題の背後にあり,それによってそれらは同一の事柄である,あるいは同一の事柄の異なった側面であるということになる筈です。
 僕にはここまでは理解できます。しかしその先は正直なところ不明です。つまり,身体の本性の変化と,この身体の合一のあり方の変化を,同一の事柄とみなすための背後の条件というのが具体的には何かということは,分からないのです。よって僕はこの点に関する考察については,少なくとも現時点ではこれ以上の深入りを放棄します。
 ただし,この放棄は,現状の課題についての考察の放棄というのとは異なります。なぜなら,実際に解明されるべきことは,この条件そのものが何であるかを確定させることではないと僕は理解しているからです。
コメント
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