スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&自転車と人間の身体

2013-01-14 18:50:54 | 将棋
 掛川城の中の二の丸茶室で開幕した第62期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は佐藤康光王将が17勝,渡辺明竜王が13勝。
 掛川市長による振駒で佐藤王将の先手。相掛りで先手が引き飛車,後手が浮飛車。先手が1筋の位を取って後手が中原囲いから先攻を目指す将棋。端に手をかけたこともあり,先手は分裂した陣形に。長引けば1筋の位が生きてくるでしょうから,後手の指し方は当然なのかもしれませんが,うまいものだと思いました。
                         
 先手はここで▲6五桂と跳ねていきました。すでに苦しいと感じての勝負手であったかもしれません。△同桂▲同歩に△5六歩。銀では取れないので▲同歩の一手。さらに△3五歩▲4七銀と利かせてから△7五角と王手で飛び出しました。▲3八玉に△5七角成。
                         
 第1図の局面で5三の角が馬になることは考えづらく,そのために歩損はしましたがこれなら後手の方がいいだろうと思えます。実戦はこの後の先手の粘りが最も印象的ではあったのですが,多くの時間を残していた後手が切らすことなく攻めを繋げて勝っています。
 渡辺竜王が先勝。対戦成績ではリードされているのですが,持ち時間の長い将棋ではむしろ分があるので,タイトル移動の可能性が高いとみていますし,一方的な展開まであり得ると思っているのですがどうなるでしょうか。第二局は23日と24日です。

 人間の身体というのは,自転車からタイヤが着脱可能というような意味において,部分によって構成された一物体であるとはいえないかもしれません。しかしたとえそれが同じ意味ではないのだとしても,少なくとも自転車とタイヤの間にあるのと同じ関係が,人間の身体とその身体を構成する部分との間にはあるのだと僕は思います。僕が自転車のタイヤがそれ自体で空気を入れられるならば,自転車の観念を有する限りで神のうちにその観念があることはできないならば,タイヤが自転車に装着されていた場合にも同じことが妥当するであろうということを述べたのは,部分というものが単独で考えられた場合には,それが全体の一部を構成しているかいないのかということは無関係に,その全体の観念を有する限りでの神のうちに,その部分の中に生じることの観念はあることができないということを示唆するためです。よって人間の身体を構成するある部分についても,それがその部分として単独で認識される場合には,その中に起こることの観念は,その部分によって組織されている人間の身体の観念を有する限りでの神のうちにはないであろうという結論となります。
                         
 このことと大きく関係していると思えるのが,佐藤拓司による『堕天使の倫理』での考察です。すなわち佐藤はこの根拠として,スピノザによる第二部定理二四証明を参照しました。すでに説明したように,この論証の冒頭で,スピノザは第二部自然学②定義を援用しています。つまりこれを人間の身体全体とその部分との関係に当てはめるのであれば,人間の身体を構成している部分というものは,それがほかの部分と合一して全体を組織するという観点からみるならば人間の身体の本性に属するといわれなければならないでしょうが,もしもその合一という観点を除外して,単にその部分だけをひとつの物体として抽出した場合には,人間の身体の本性には属していないと考えなければならないということになります。実際にスピノザがこの証明の冒頭でこの定義を援用する意図というものは,その部分にあるのです。つまり,少なくとも全体の部分を,それ単独で抽出することが可能だということは,スピノザは認めていたということになります。
コメント
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