スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ユニバーサル杯女流名人位戦&ふたつの観点

2013-01-17 18:39:21 | 将棋
 14日に出雲文化伝承館で指された第39期女流名人位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人の5戦5勝。
 出雲市長による振駒で里見女流名人の先手。上田初美女王は相手が居飛車なら振飛車,振飛車なら居飛車の対抗形を好むという印象をもっていたのですが,この将棋は相振飛車になりました。序盤の駒組で先手がうまくやり,戦いに入った時点で先手が優位。後手が勝負手を繰り出していくというのが全般的な進展であったと理解しています。勝負は最終盤で決しました。
                         
 王手で金をただ取らせるという手は普通はなく,ここは△6三同金が最も自然。しかし残っていた時間を投資して△3五香と打ちました。完全に読み切っていたというわけではないようですが,これは好手でここから後手の勝ち筋のようです。▲6二歩成△同飛▲6三歩△同飛▲5二銀まで,先手としてはこう進めるほかないように思えます。これを放置して△3六香。先手は▲6三銀成△同玉としてから▲4六歩と受けに回りましたが,これが後手の盲点になっていたようです。以下△3九飛▲4七王△3七香成▲同金。
                         
 ここから△4九飛成▲4八金打△5六銀としたのですが,この順が敗着に。ここでは単に△5六銀と打っておけば,▲同王は詰み,▲3六王なら先手玉を必死に追い込み,そのときに5六に打った銀が効いて後手玉が詰みを逃れているようです。簡単に読めるような順ではなく,仕方がなかったとは思いますが,せっかく踏み込んで勝ちに持っていった後手にとっては残念な一戦となってしまいました。
 里見名人が先勝。第二局は20日です。

 これらの前提と条件から,Xという物体がAとBというふたつの物体によって組織されているという場合に,Xの観念を有する限りで神のうちにAの観念があるという言明が,どのような意味において成立するのかということが明らかになります。すなわちそれは,あくまでもAがBと合一することによってXの本性に属するという観点の下に成立するのであって,もしもこの合一を度外視し,Aを単なるひとつの物体Aとしてみるのであれば,それは成立しません。その場合には,Aの観念というのは,ただ神がAの観念を有する限りで神のうちにあるといわなければならないでしょう。なぜならば,Xの観念を有する限りでの神というのは,Xの観念の本性によって説明される限りでの神というのと同一です。ですから,Xの本性に属するような事柄に関しては,そのすべてがXの観念を有する限りでの神のうちにあることになります。これを否定するならば,神がXの本性によって説明されなくなってしまうからです。しかるに,AはBと合一しているという観点ではXの本性に属しますが,この合一から離れてただ単なる物体AとしてみられるならばXの本性には属しません。よってAが前者の相からみられる場合にはAの観念はXの観念を有する限りでの神のうちにあるのでなければなりませんが,後者の相からみられるのであれば,Xの観念を有する限りで神のうちにあるというのは,むしろ不条理であるということになるのです。
 再びこのことを自転車とタイヤの関係として説明してみます。タイヤは,たとえばギアやチェーン,ブレーキやペダルといった自転車を組織するほかの部分と有機的に連関しているとみられる限りにおいては,自転車の観念を有する限りで神のうちにあります。この場合にはタイヤは自転車の本性に属していると理解されなければならないからです。しかしそうした諸部分との有機的連関を無視して,単にひとつのタイヤとして眺められた場合にはそうではありません。この観点ではタイヤは自転車の本性には属さないからです。つまりこの相の下においては,自転車の観念を有する限りでの神のうちには,タイヤの観念はないといわなければならないでしょう。
コメント
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