スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

表彰選手&タイヤと留め金

2013-01-19 19:06:57 | 競輪
 2012年の競輪の表彰選手は16日の発表でした。
                         
 最優秀選手賞は茨城の武田豊樹選手。東王座戦,高松宮記念杯,サマーナイトフェスティバル,競輪祭とビッグ4勝。久留米記念,高知記念,西武園記念,福井記念,松戸記念,取手記念と記念競輪も6勝。近年ではまれにみる好成績で,当然の選出です。賞金こそ3位でしたが,競走得点,勝率,連対率,優勝回数はすべてトップ。特筆すべき1年であったといっていいと思います。2004年に優秀新人選手賞,2005年に優秀選手賞,2009年も優秀選手賞で2010年2011年は特別敢闘選手賞。4年連続6回目の受賞です。
                         
 優秀選手賞は2名。まず京都の村上義弘選手。何といってもKEIRINグランプリ優勝が大きかったです。グランプリ優勝者はさすがに表彰対象になるべきで,順当でしょう。大宮記念も優勝。獲得賞金トップ。2002年と2003年,2010年と2011年に優秀選手賞に選ばれていて,3年連続5回目の表彰。
                         
 もうひとりは福島の成田和也選手でした。日本選手権で優勝。年間を通じての優勝回数を勘案すれば別に候補もいたと思うのですが,獲得賞金でMVPの武田を上回る第2位であったことが決め手になったものと思います。国際賞は過去に受賞していますが,それ以外の部門では初の表彰。
 優秀新人賞は徳島の原田研太郎選手。昨年のこの部門は低調だったと思います。失礼ながらこの受賞は意外でしたが,ではだれが相応しいかと問われれば,思い当たる選手も不在です。競輪は選手数の減少に歯止めがかからず,個人的にはその点はやむを得ない面があると思っていますが,中間や底辺のレベルアップを図るような施策が必要になっていると考えています。
                         
 特別敢闘選手賞は愛知の深谷知広選手。西王座戦で優勝し,立川記念,高松記念,川崎記念で優勝。目立ったのは上半期だけといえなくもありませんが,競走得点は第2位ですから表彰には十分に値するでしょう。2010年が優秀新人選手賞で,2011年は優秀選手賞と特別賞。3年連続3度目の表彰。
                         
 特別賞に福井の脇本雄太選手。昨年はグレード制覇はなく,異例といっていいのではないでしょうか。この選手はビッグを優勝する選手と考えていて,表彰はその後でも遅くなかったと思っています。
 国際賞とガールズ競輪は割愛。対象にならなかった選手で印象に残っているのは,佐藤友和選手と浅井康太選手,そして長塚智広選手です。

 これをまた自転車とタイヤの場合で考えてみます。ただ,タイヤに空気を入れることは,自転車の本性に関してはそれを変化させるような現象ではありませんから,この場合には利用することができません。そこで今回は,タイヤの留め金が外れてしまって脱輪したという場合を想定します。
 まず第一に,このことはタイヤと留め金,これらふたつは自転車という一物体を構成する各々の部分としての物体ですが,これらの合一の様式に変化が生じたということです。つまり第二部自然学②定義の意味において,自転車の本性に属する物体に変様が生じたということです。ですからこのことに関係する何らかの観念が,自転車の観念を有する限りで神のうちにあるということは,僕には確実なことと思えます。
 一方,この具体的な変様,すなわちこの場合にはタイヤの留め金が外れたということですが,このことの観念が,タイヤの観念を有する限りで神のうちにあるということ,また留め金の観念を有する限りで神のうちにあるということ,このふたつもまた確実なことだろうと僕は思います。ではこの観念が,単に自転車の観念を有する限りで神のうちにあるといえるのかといえば,僕はこれには確信をもってそうであるとはいいきれないのです。
 僕がこれに確信を抱くことができないのは,ある事物の本性に何らかの変化が生じるということ自体と,その変化が生じる具体的な現象というのは,明らかに分けて考えることもできるように思えるからなのです。この場合でいいますと,タイヤが留め金から外れることによって自転車の本性が変化します。このときに,タイヤが留め金から外れることが原因であって,自転車の本性が変化することはその結果であるということに無理があるというようには思えません。すると第一部公理四により,自転車の本性の変化の認識が,タイヤが留め金から外れることの認識に依存しなければならないということになります。であるならば,後者の認識が自転車の観念を有する限りで神のうちにあるためには,前者の観念もまた自転車の観念を有する限りで神のうちにあるのでなければならないと思えます。しかしこれがはっきりとそうであるとはいえないと思うのです。
コメント
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