スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ゴールドカップレース&僕の解釈

2013-01-29 19:05:32 | 競輪
 2013年のS級S班の過半数を超える5人が参戦した京王閣記念の決勝。並びは山崎-佐藤の福島,武田-阿部の関東,村上ー三谷-志智の近畿中部,北津留-菅原の九州。
 大外でしたが佐藤がSを取って山崎の前受け。3番手に村上,6番手に武田,8番手から北津留で周回。北津留の上昇は早く,残り3周のバックから。コーナーでは山崎と並んでホームで叩きました。続いていた武田がバックにかけて北津留を叩くとバックでは村上がさらにその上を叩いて先頭に。打鐘から北津留がまた巻き返していき先行に。3番手が村上,6番手に武田,8番手に山崎の一列棒状。武田が動き,それを制して村上,これに併せて菅原と,捲り合戦に。つばぜり合いとなった村上と菅原は力で村上が出ましたがこれで力尽き,直線は外から武田で大外から捲り追い込んだ山崎。しかし大きく開いた村上と武田の間を脚を溜めていた志智が鮮やかに突き抜けて優勝。4分の3車身差の2着は大外の山崎。武田は4分の1車輪差で3着。
 優勝した岐阜の志智俊夫選手は11月の大垣記念以来の記念競輪3勝目。ここは4分戦でただひとり3番手と,位置には恵まれませんでしたが,ラインの村上は必ず仕掛ける選手ですから,うまく脚を溜めればチャンスはあるのではないかとみていました。展開が絶好となり,コースもがらりと開いてラッキーな面はありましたが,それにしても素晴らしい伸び脚でした。もう40歳ですが,競輪レーサーとして,最もよい時期を迎えているといった印象です。

 背後の条件が不要であるという考え方が成立し得るということは僕も認めます。しかし僕自身はこの解釈は採用しません。僕はむしろ,神の無限知性のうちにXの観念があるとして,Xの十全な観念はXの真の観念であるという言明,ならびにこの言明の主語と述語とを入れ替えた,Xの真の観念はXの十全な観念であるという言明を,共に,それ自体でみられるならば,偽の命題であると解します。
 僕がそのように考える理由というのは,主語と述語がどちらの場合であっても同様です。ここではXの十全な観念はXの真の観念であるという言明の方で説明します。
 仮にこの言明を真の命題であるとみなした場合,そこには,Xの観念が十全な観念であるならば,それは真の観念であるということが含意されます。このこと自体は真理ですから,この言明に含まれる意味がこれだけであると考えるなら,この命題は真の命題であるとしか理解できません。しかし僕の考えでは,この言明に含意されるべき内容は,このことでは,あるいは少なくともこのことだけではありません。僕はこの言明のうちには,Xの観念の内的特徴はXの観念の外的特徴であるということが含まれなければならないと理解します。そしてこのように理解する限り,これは一般的な意味において,ある事物の内的特徴とはその事物の外的特徴であるという言明と同じだけの主張をしているということになります。しかしこれが偽の命題であるということは明白であり,これに関しては何も説明は必要ないでしょう。よって僕は,Xの十全な観念はXの真の観念を,それ自体でみられる限り,偽の命題であると解することになります。
 僕はかつて第二部定義四をテーマに設定し,詳しく考察しました。スピノザの哲学では,事物の定義には定義される事物の本性と発生が含まれなければならないということになっています。したがって第二部定義四には十全な観念の本性が含まれています。そしてその考察の中でもいったことですが,真の観念というのは第一部公理六で,公理として示されています。つまりそれは外的特徴によって把握されるので,本性を示すことができないようなあるものです。この点も今回の解釈と関係しています。
コメント
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