スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

仲間割れの事情&別の一面

2013-01-21 18:46:05 | NOAH
 僕が考えるブロディとスヌーカの仲間割れの事情というのは,ごく簡単にいうなら,超獣の正式なパートナーを,スーパーフライから不沈艦へと,ごく自然な形で移行する目的であったということです。
 ブロディとハンセンというのは大学では先輩と後輩という間柄で,敵対するということは不自然です。しかしこのチームにスヌーカまで加わっては,チームとしての力量というものがあまりに強大になり過ぎます。そこで力量があまり不均衡にならないように,外国人チームの再編成が必要であり,そのためにブロディとスヌーカは仲間割れしたのではないかというのが僕の推測です。
 チームの力の不均衡というのは,戦っている選手は考えないわけではないでしょうが,むしろそれを考慮に入れるのはプロモーターの方であるというのが自然であると思います。つまりブロディとスヌーカの仲間割れというのは,ハンセンやブロディ,そしてスヌーカが発案したというのではなく,プロモーターである馬場の意向だったのではないかと僕は考えているのです。
 ブロディはいかにトップレスラーであるとはいえ,過度であるといっていいほどのエゴイズムを持っていました。ですから基本的にそれがプロモーターの意向であるからといって,簡単に従うような選手ではなかったものと思います。ブロディと仲が良かったザ・グレート・カブキは,ブロディには信頼しているプロモーターが3人いて,馬場はそのうちのひとりであったといっていますが,仮に僕の推測が正しく,これが馬場の意向によるものであったとしても,ただそれだけでブロディが従ったものとも僕には思えません。
 実はブロディとスヌーカは,共に全日本プロレスで仕事をする以前は,アメリカでは戦っていました。このふたりを組ませたのは馬場が最初だったのです。それではっきりとした成功を収めることになりましたから,ブロディとしても従いやすかったという面はあったでしょう。さらにいえば,ハンセンをパートナーにすることで,さらに地位を向上させることも可能であったように思えます。だから少なくともブロディにとって,仮に馬場の意向があったとして,それは汲みやすかったものと思います。

 他面からいうならば,タイヤが留め金から外れて脱輪することと,その自転車の本性に変化が生じるということは,完全に一致する事柄を別の角度から説明していると考えることも可能でしょう。すなわちそれをタイヤや留め金という観点から説明するならばタイヤが留め金から外れるということであり,そのタイヤと留め金によって一部を組織されている自転車という観点からみるならば,その自転車が自転車としての機能を喪失すること,つまり自転車の自転車としての本性に変化が生じたということであると主張することに,はっきり無理があるようには僕には思えません。
 ただ,こちらの面から説明した場合には,タイヤが留め金から外れるということが原因であって,自転車の本性の変化がその結果として生じたということはできなくなるように思います。というのも,この場合にはこれらふたつの事柄は,同じ事柄を異なった観点から説明していると主張しています。したがってその一面が原因であり,もうひとつの面が結果であるということは,結局のところは同じひとつの事柄が原因でもあり結果でもあるということになります。すると第一部公理四からして,この事柄を理解するためにはこの事柄だけを認識するだけで十分であるということになるでしょう。いい換えればこの事柄を十全に認識するためには,この事柄以外の何も概念する必要がないということになります。つまりこれは第一部定義三により,この事柄は実体であると主張していることにほかなりません。タイヤが留め金から外れることとか自転車の本性に関してこれをいうことが不条理であるということは,とくに説明するまでもない筈です。よってそれが原因と結果を構成するから,タイヤが留め金から外れること自体の観念は,自転車の観念を有する限りでは神のうちにはあることができないということは,この面からそれらを理解するという場合には,成立しないということになります。
 だから逆にいえば,この面からは,自転車の観念を有する限りでの神のうちに,タイヤが留め金から外れることの観念があるということも,十分に可能になっていると思います。そのこと自体が自転車の本性の変化そのものであるといえるからです。
コメント
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