スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&マシュレの結論

2011-06-13 19:22:21 | 将棋
 若き振穴王位への挑戦者を決める第52期王位戦挑戦者決定戦。対戦成績は羽生善治名人が32勝,藤井猛九段が14勝。
 振駒で羽生名人の先手。藤井九段の角交換四間飛車から向飛車穴熊に対して先手は銀冠。先に先手から角を打って4筋を狙いにいくことに。後手から銀交換し,先手がその銀を打つ変化から,先手が金と桂馬,後手が飛車を入手するという戦い模様に。今日は下図からの観戦。
                         
 どちらがよいかは分かりませんでしたが,先手の角が働いてくるのかどうかが焦点となるように思えました。▲7ニ成桂もあるかと思いますが▲6三成銀も自然な手。△8五歩も最も自然に思え,▲7ニ成銀と成銀の方を入りました。△8六歩▲同銀は予想通り。△7四桂(第2図)は攻め合うならこれしかないでしょう。
                         
 先手からいろいろな手段がありそうなところで,▲6九金打と受ける手は考えていませんでした。△2九飛成は仕方ないところ。そこで▲8四歩は予想通りですが,第2図ですぐに打ってしまうよりも先手玉は安全になっています。また,当たりになったところで角も働き,これは先手の方がよさそうだと思いました。どちらかに桂を跳ねると思っていたら△8六桂と銀の方を取りました。▲8三歩成△同馬は必然に思います。ここで▲8七金(第3図)と逃げたのも,おそらくこう指すと思っていました。
                         
 後手は指し手に窮した感を受け,△4七馬とでもやるかと思っていたら△5七銀不成が指されて驚きました。▲同角はさすがにこの一手。△5六歩か△5六銀かと思っていましたが△6五桂でした。先手は▲8四歩と攻め合いに。今さら馬を逃げてもいられないでしょうが△7七銀と打ち込んでいったのも驚きました。▲同金寄△同桂成▲同玉でどうするのかと考えていたら▲同金寄で投了。実際には第1図のところですでに先手がよかったのでしょう。
 羽生名人が挑戦権を獲得。第一局は来月の12日と13日です。
                         

 僕が立てた仮説から得られるような結論,すなわち,どんな有限知性も自身が認識することが可能であるようなすべての神の属性に関してはそれを混乱して認識するということはないということ,したがって,第一部定義四に書かれているように,もしも属性というものが知性によって実体の,実在的にいうならば神の,本性を構成していると認識されるようなものであるならば,実際にそうした属性は神の本性を構成していると実在論的に解釈して構わないという結論は,マシュレが『ヘーゲルかスピノザか』の属性の問題という箇所で,やはりスピノザの哲学における属性という概念について分析した上で帰結させているものと一致しているといえます。これはこの著書の第3章に該当しますが,第2部の最後のところで,第一部定義四というのは,属性は実体の本性を構成するものであり,知性はそれを十全に認識するという意味のことをマシュレは述べています。
                         
 ただし,結論に関しては完全に一致しているとみなしてよいだろうと僕は思いますが,この結論に至るまでのマシュレの訴訟過程に関しては,僕はいくらかの疑問を抱いています。もっとも,マシュレがこの著書において全体的に主眼としていることは,もちろん第一部定義四に関してそれを詳細に分析してみせるといったことなどではなくて,むしろヘーゲルの哲学とスピノザの哲学との間にあるような乖離の検討です。スピノザの哲学における属性というものをどのようなものとみなすべきなのかという観点から第一部定義四が取り上げられているだけですから,マシュレ自身がこの部分に関するような自らの考え方というものを,そこで十分に表明しているとはいえないのかもしれず,僕の疑問というのは,そうした理由によって発生しているといえなくもありません。
 実際のところ,僕はこの部分におけるマシュレの考え方というものについて,それに反対するというよりも,それを明確な形で把握することができないという印象の方が強いのです。ただ,もしも僕の理解とマシュレの理解との間に,僕がそこで理解することができるような差異というものがあるのであれば,それは第一部定義四に関連するような差異であるというよりは,スピノザの哲学における別の部分に関する理解にその原因を求めることができるのではないかと考えています。
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棋聖戦&仮説

2011-06-11 18:46:32 | 将棋
 昨年と同一カードとなった第82期棋聖戦五番勝負の第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が32勝,深浦康市九段が27勝。
 振駒で深浦九段の先手。変則的な出だしからの矢倉模様に進みましたが羽生棋聖が中飛車からカニカニ銀。後手が中央から動いて銀交換から金銀交換,その金銀を打って飛車を取る間に先手は馬を作るという中盤の戦い。今日は観戦できませんでしたので,終盤近辺からひとつだけ。
                         
 ここはもう先手が苦しいかもしれないのですが,ここで▲6五歩と突いて飛車を捕獲しにいきました。後手は△7五歩と横を通し先手は▲5五馬。先手が△5四歩と打ったのに対して▲8二馬と逃げました。次に飛車を取る狙いは残りましたが,△7六歩と取り込まれましたから,まるまる2手くらい損してしまったような感じを受けます。この局面でこの指し方はどうだったのかと疑問が残りました。先手も狙い通りに飛車は取れたのですが後手の一手勝ちに終っています。
 羽生棋聖が先勝。第二局は25日です。

 もちろんスピノザ自身は,人間の精神を代表とするような有限知性が,それが認識し得るような属性を表象するということはない,あるいは混乱して認識することはないということを明言しているわけではありません。そのような言及は,『エチカ』のどこをどう探しても発見することが僕にはできません。だから僕がここまで考察し続けてきたことは,あくまでも仮説の域にとどまるということになります。ただ一方で,有限な知性が自身が認識し得るような属性について,それを表象したり混乱して認識することについて,それを可能とするような要素が『エチカ』の中には見当たらないというのも事実ではあると思います。比喩としてはあまり適切とはいえないかもしれませんが,犯罪の捜査にたとえていうならば,状況証拠は揃っているけれども,決定的証拠が見つからないといったところでしょうか。疑わしきは罰せずという規則ではありませんが,やはりこれはあくまでも仮説であるとして,この部分の考察についてはここで一区切りをつけるということにします。
 ところで,もしもこの仮説が正しいものであるとしたら,第一部定義四認識論と実在論の問題に対してドゥルーズが示したような態度,すなわちスピノザの哲学における知性というのは実在するものだけを認識するのであるから,認識論的にしか読解できないような第一部定義四を実在論的に読み替えたとしても何の問題もないとして,この問題自体を一蹴してしまうような態度は,実は正当なものであるということになります。というのは,人間の知性ないしは有限な知性というのが,事物を混乱して認識する,なかんずく表象するということがあるということは,『エチカ』においてはまったく否定することができないですが,こと属性に関しての認識だけに限定した場合には,確かにドゥルーズのいっていることが正しいということになるからです。したがって,有限知性が全般に実在的なものだけを認識するという点に関しては僕は否定しますけれども,第一部定義四を実在論的に解釈するという点だけに限定するのであれば,もちろん仮説が正しければという前提はあくまでも必要ですが,この読み替えが可能であり,よって問題自体を一蹴することができるということについて,僕も同意します。
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和田京平の回顧&想起の前提

2011-06-10 18:39:55 | NOAH
 全日本プロレスの創成期からのスタッフで,後にチーフレフェリーも務めることになる和田京平さんは,『読む全日本プロレス』という著書の中で,アラビアの怪人黒い呪術師についてもいくらか触れています。
                         
 それによれば,ふたりは性格的にはかなり違っていたとのこと。試合の中ではシークの方が冷静で,ブッチャーはときに手がつけられなくなることもあり,レフェリーとしてはブッチャーの方が怖かったそうです。
 僕はシークについては,相手の技を受けるようなところがなく,プロレスラーとしては大きな不満を感じていました。和田レフェリーによれば,そもそもシークというのは観客のことなどははじめから考えていないし,勝負に対するこだわりもなかったとのこと。つまり反則負けになるならばそれで構わないし,それで全日本プロレスに呼ばれなくなったとしてもそれはそれで構わないくらいに考えていたようです。だからああいった試合スタイルになったのでしょう。和田レフェリーはシークの試合はシーク自身のマスターベーションであったと回顧していますが,なるほどこれはなかなかいい得て妙だと思いました。
 このような考え方だったからでしょう,シークは試合の中でも抑制すべきところは抑制していたようです。確かによく考えてみると,シークがレフェリーに対して過度な暴行をふるうというシーンはあまりなかったかもしれません。少なくともブッチャーに比べれば確かに少なかったと思います。そういう意味でいえば,真相はシーク自身が発案したストーリーではあったわけですが,ブッチャーと仲間割れをした後の遺恨決着戦で,実況アナウンサーを襲ったというシーンは,むしろレアケースに属するかもしれません。あまりに強烈なエピソードなので,シークの印象を強く決定づけているかもしれませんが,本当のシークというのはそういうイメージとは実際には違ったプロレスラーであったようです。

 属性の場合にも,例として示したリンゴの場合のような同一の表象が生じるのであれば,属性ということばによる表象は,属性の混乱した認識であるということになります。しかし僕は,属性の場合にはこれと同じことが生じ得ない,あるいはそこまではいわないとしても,生じるとは考えづらいと思っています。
 以前に人間の身体のうちに生じたことと同一の運動が後に人間の身体のうちにまた生じるためには,当たり前のことですがその運動が以前に生じているということが前提となります。これを僕が考えている表象の種類と関連させていうならば,人間の精神がある事物ないしは事象を想起するためには,それ以前に想起されるその内容について経験していなければならないという意味になります。未経験の事柄を想起できるわけもありませんからこれもきわめて当然のことでしょう。そこでかつて果物のリンゴを知覚し,それがリンゴという名前で呼ばれることを知っている人間は,後にただリンゴということばに刺激されるだけで,その人間の現前には実在していないリンゴのことを,あたかも現実的に存在すると表象するようになるでしょう。というか,必ずそうであるとはいえないかもしれませんが,そうしたことは生じ得ます。これがリンゴの想起であって,この想起はその人間の身体の運動という観点から,以前のリンゴの知覚と同一の表象であるといえるわけです。
 ところが,人間はリンゴを知覚するようには思惟および延長の属性については知覚しないのではないかというのが僕の仮説のそもそもの主旨となっています。というのは,リンゴについては第二部定理一七の様式で人間はリンゴを表象しますし,これはあらゆる物体について,またそうした物体の観念についても同様です。ところがそこで示されているような様式が人間に生じるときには,人間は思惟ないしは延長の属性に関しては,むしろそれを表象するのではなく,共通概念として十全に認識するであろうというのが僕の結論なのです。だから属性ということばによって人間が何事かを表象するということはあり得ると僕は認めますが,それが属性の想起であるというようには考えられません。よってこの観点からも,人間が属性を混乱して認識するということはないのではないかと思えるのです。
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東京ダービー&同一の表象

2011-06-08 20:41:05 | 地方競馬
 今週は地方競馬のダービーウィーク。今宵は大井で第57回東京ダービー
 最初の直線は長く,ゆっくりと外からエースフォンテンが先頭に。ジャクソンライヒ,ナターレの3頭はほぼ一団。クラーベセクレタはこれらの後ろに控えました。前半の1000mは60秒9のハイペース。
 レースを動かしたのは後ろから5番手あたりに位置していたファジュルで,向正面を一気に進出。3コーナーを過ぎたあたりで先頭。ナターレだけは食い下がり,その外へクラーベセクレタも進出。手応えはクラーベセクレタがよく,直線で追われると内の2頭は置き去りに。追ってきたのがレース前半は最後尾を追走していたヴェガスで,よく迫りはしたものの1馬身届かず,クラーベセクレタが優勝。ヴェガスが2着。正面の直線では好位にいたものの,一旦は控える形になったキスミープリンスが大外を追い込んで3着。
 優勝したクラーベセクレタ羽田盃も制していて2冠達成。北海道から転入後は南関東重賞ばかりを使って負けなしの5連勝。ここはほぼ勝負付けの済んだメンバー構成なので,順当な勝利。むしろ思ったほどの差をつけられなかったような気すらします。距離はもう少し短い方がいいのかもしれません。母の父がタイキシャトル。Clave Secretaはスペイン語で秘密の鍵。
 日曜には安田記念を勝った大井の戸崎圭太騎手は先週はさきたま杯も制しています。東京ダービーは2007年,2008年,2010年と勝っていて連覇で4勝目。管理している船橋の川島正行調教師は1997年,1998年,2004年,2005年に勝っていて5勝目。

 属性ということばによって何事かを表象することは,属性それ自体を混乱して認識するということとは異なっていること,さらに僕たちがある物体についてそれを混乱して認識したとしても,それは第二部定義一で示されていることを混乱して認識しているということとははっきりとした懸隔があるということに注意すれば,人間が延長の属性ならびに思惟の属性に関して,それを混乱して認識するということは現実的に生じないのではないかという僕の仮説は,ますます強化されるのではないかと思います。そしてさらに,次のことを付け加えておきます。
 たとえば僕たちは,リンゴということばに触れることによって,果物のリンゴを表象するということについては,僕もそうしたことが生じ得るということを認めます。いい換えれば,属性ということばによる表象と属性そのものの表象との間には明確な差異があると僕は考えますが,リンゴということばによる何事かの表象と,物体としてのリンゴの表象との間には,必ずしもそれと同じ意味での差異があるとは考えません。むしろ場合によっては同じであると考えます。僕は表象の種類としては主だったものをみっつ考えていますが,リンゴということばによる何事かの表象は,そのうちの想起に該当する場合があるのであって,それは物体としてのリンゴの表象と同一とみなしてよいと思うからです。
 これは,同一の表象というとき,何をもって同一であると僕が考えるのかという点がその理由になります。一般に人間の精神による事物の想起というのは,第二部定理一七系の様式で生じます。そしてその証明をみれば明らかなように,スピノザはこれを人間の身体のある運動と関連させて示します。もちろんこの証明におけるスピノザの説明は,医学とか生理学という分野からみればむしろ批判の対象となるでしょうが,人間の精神というのが知覚であれ想起であれ何事かを表象するときに,人間の身体にある運動が生じているということ自体は否定できません。僕が同一の表象というときに重視するのは,この運動が同一であるという意味です。つまりリンゴということばによって人間の身体に生じる運動が,かつて果物のリンゴを知覚したときに生じた運動と同一なら,これを同一の表象と僕は考えるのです。
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東日本大震災被災地支援高松宮記念杯&懸隔

2011-06-06 18:45:16 | 競輪
 大津びわこ競輪場の廃止に伴い,グリードーム前橋での開催となった第62回高松宮記念杯競輪は2日に開幕,昨日が決勝でした。並びは佐藤-伏見の北日本,武田-後閑の関東,深谷-山口の中部,稲垣-村上の京都で小倉が単騎。
 Sを取ったのは伏見で佐藤の前受け。武田が3番手で小倉が続き,6番手に深谷,8番手から稲垣で周回。残り2周半になるあたりから稲垣が上昇。すぐには前まで行かず,打鐘前のバックにかけて深谷に蓋をしてから打鐘で佐藤を叩いて先行態勢に。深谷も追う構えでしたが3番手は佐藤が確保。その後ろで武田と深谷がもつれるようになり,深谷は強引にホームから再び発進。山口が離れ単騎となり,村上も牽制しましたがその上を行ききりました。併せられなかった村上が深谷を追いましたが,結局はゴールまで追いつくことができず,深谷の優勝。村上が2着で,コーナーで浮いた佐藤から村上に切り替えるような形で伏見が3着。
 優勝した愛知の深谷知広選手は昨年暮れのヤンググランプリ以来のビッグ2勝目。今年は立川記念を制しました。そのときに,いずれはこの選手の時代が間違いなくやってくると確信しましたが,早々にGⅠ制覇を成し遂げてくれました。この1勝で完全に深谷時代に突入したとはいえないかもしれませんが,今後の競輪界は,深谷選手に対してこれまでのトップレーサーたちがどのように対抗してくるかというのが最大の争点となってくるのではないでしょうか。
                         

 さらにもうひとつ,僕の仮説を正確に理解してもらうための注意点を上げておきましょう。
 僕はたとえば第二部定義一でスピノザが示しているような事柄に関しては,共通概念としてどんな人間の精神のうちにも十全な観念としてあると考えています。そしてこれ自体は,第二部定理三八系からして,スピノザも同様であろうと思います。しかし,このことは,現実的に存在するある物体に関して,その十全な観念が人間の精神のうちにあるということとは,はっきりと異なることなのだと思うのです。
 スピノザの哲学では,事物の定義というのは,その事物の本性と発生とを含んでいなければならないということになっています。そして,これについてはここでは詳しくは説明しませんが,第二部定義一というのもその条件を満たしていると僕は考えています。しかしこのことは,たとえば物体Aが現実的に存在するとき,その本性と発生を,とくに発生というのを正確に示しているとは僕は考えません。というのは,個物の現実的な意味での発生というのは,その個物自身の本性には含まれません。したがってこれを延長の個物に限定して一般的にいうならば,物体が現実的に存在するようになる原因というのは,物体の本性,すなわち第二部定義一のうちに含まれているわけではないということになるからです。これは第一部定義一からして,この主張は物体が自己原因であるといっているのに等しくなりますから当然でしょう。この定義のうちに示されている物体の発生というのは,物体が神の延長の属性の有限様態であるということにより,第一部定理一六からして無限に多くの物体が実在的なものでなければならないという意味であって,ある物体が現実的に実在するという意味ではないと考えるのです。
 むしろある個物が現実的に存在することの原因というのは,第一部定理二八の様式において説明されなければなりません。いい換えれば,ある個物についてその十全な観念がある知性のうちにあるというのは,その個物について第一部定理二八の様式が十全に認識されているという意味でなくてはならず,第二部定義一で示されていることが十全に認識されているというだけでは不十分だと思います。よって,ある知性によって第二部定義一が十全に認識されることと,たとえば現実的に存在する物体Aが十全に認識されることの間には,大きな隔たりがあると思います。
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農林水産省賞典安田記念&ことばによる表象

2011-06-05 18:54:05 | 中央競馬
 香港から2頭が遠征してきた第61回安田記念
 ダノンヨーヨーが出負け。シルポートが逃げるのは戦前の予想通り。ジョーカプチーノがこれを追い掛けました。アパパネは中団でしたが,僕には少し掛かっているように見えました。前半の800mは45秒4で,少し早いかなという程度のミドルペース。
 クレバートウショウと並ぶように前の2頭を追い掛けていたリアルインパクトは直線に入るとその外へ。非常によい手応えと見受けられましたが,抜け出しはせず,シルポートは脱落したもののジョーカプチーノと競り合いに。これを競り落としたところへ狭いところを割るように伸びてきたストロングリターンが急襲。同じ厩舎の争いとなりましたが,追撃を封じたリアルインパクトが優勝でストロングリターンが2着。大外を伸びたスマイルジャックが3着。
 優勝したリアルインパクトは新馬戦以来の2勝目。ただその後の戦績から,現3歳世代ではトップクラスの力をもっていることは明らかでした。傑出した古馬が不在であったことは確かですし,もちろん斤量差もありましたが,この時期の3歳馬が古馬を相手に大レースを勝ったというのはとても立派。この路線に限っては今後はこの世代が牽引していく可能性もありそうです。父はディープインパクトで兄に2007年のオーシャンステークスを勝ったアイルラヴァゲイン
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先月のかしわ記念に続く大レース制覇で,JRAでは大レース初勝利。見事にワンツーを決めた堀宣行調教師は高松宮記念以来の大レース制覇で安田記念は初勝利。

 実際には,人間の精神mens humanaが延長の属性Extensionis attributumを認識するcognoscere様式というものが,これだけに限られるといっていいのかどうか,現時点では僕には分からないというのが正直なところであり,あくまでもこれは仮説にすぎません。ただ,以下のような事象に関しては,僕は僕が示した様式には含まれないと考えています。
 僕たちは属性ということばに刺激されるafficiことによって,つまり属性ということばを読んだり聞いたりすることによって,何らかの表象像imagoがその精神のうちに形成されるということがあると思います。しかし僕はこうした表象像に関しては,それを属性の混乱した観念idea inadaequataとは考えません。いい換えれば,こうした様式によって,人間が属性を混乱して認識しているとは考えないのです。そして僕がそう考える根拠は,おおよそ次の点にあります。
 第二部定理三二に示されているように,すべての観念はそれが神に関連付けられればomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur真の観念idea veraであり,したがって十全な観念idea adaequataです。そして有限な知性intellectusが構成するどんな混乱した観念も,それを神と関係づけることができます。人間の精神に限ってではあるかもしれませんが,それを示しているのが第二部定理一一系で,もしもAの精神の本性naturaを構成する限りで神のうちにXの観念があると関係づけられれば,Aの精神のうちにXの十全な観念があるという意味であり,もしもAの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにXの観念があると関係づけられるなら,Aの精神がXの混乱した観念を形成しているということになります。
 このことから分かるように,もしもAの精神のうちに何らかの属性の混乱した観念があるというのは,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにその属性の観念があるということなのです。ところが,このことばによる表象imaginatioの場合に生じているのはこういうことではないと思います。その根拠は後で示しますが,たとえばAがこの仕方で何事かを表象する場合には,Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで,神のうちには属性ということばの観念,あるいはそこまでいわなくても,属性ということばに刺激されることによって生じた表象像があるのであって,これは属性の観念があるということではないと僕は考えるのです。
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デュランダル&様式

2011-06-03 18:42:09 | 名馬
 今年のオークスエリンコートが勝ちましたが,この勝利には驚かれた方がいらっしゃったかもしれません。というのもこの馬の父がデュランダルだったからです。
 2歳12月のデビュー戦を勝利したものの長期休養に追い込まれ,翌年の夏にようやく復帰。そのレースは2着だったもののその後は条件戦を3連勝してオープン入り。いきなりマイルチャンピオンシップに挑戦しましたがさすがに10着。翌年の3月までに3戦し,オープン特別で1勝しました。
 4歳の秋,セントウルステークスで復帰し3着。続いて出走したスプリンターズステークスを後方から追い込んで優勝。重賞初勝利が大レース制覇となりました。さらにマイルチャンピオンシップでも見事な追い込みを決め優勝。この年のJRA賞最優秀短距離馬に輝きました。
 翌年は高松宮記念で復帰したものの2着。また休養に入ってスプリンターズステークスもぶっつけ。ここは馬場悪化の影響もありやや離されての2着。しかし続くマイルチャンピオンシップでは追い込みを決めて連覇を達成するとともに大レース3勝目。この後,香港マイルに遠征し,人気に推されたのですが5着。ただ大レースでの安定した成績からこの年もJRA賞の最優秀短距離馬に選出されました。
 また休養が長引いて復帰戦となったのが翌年のスプリンターズステークス。ここは当時のこの路線の世界最強馬が香港から遠征してきたため2着。3連覇を目指したマイルチャンピオンシップは8着と崩れ,これが引退レースとなりました。
 短距離馬ですが,時計面では明らかに限界があったタイプ。1600mだと1分33秒台が目一杯で,引退レースは32秒前半という早い時計での決着となったので崩れたものでしょう。産駒の重賞勝ち馬はエリンコートが2頭目。もちろん大レースは初。ただ,この距離での制覇は,この馬の種牡馬としての評価を変えるような面があるかもしれません。

 実際のところ,『エチカ』の全体の中で,第二部定理二六が意味している事柄は,現在の考察とは直接的にはあまり関係がありません。ただ,僕が気になっているのは,もしも人間の精神mens humanaが外部の物体corpusを表象するimaginariとすれば,それはその人間の身体corpusの刺激状態を通してのみであるということ,いい方を換えれば,ある物体がその人間の身体を刺激するafficere様式を通してのみであると示されているという点にあります。そして実際にはこのことは,むしろ第二部定理一七系を経験的に考えるなら明白であるといえます。第二部定理一七系は,人間の精神がいかにして事物を想起するのかということを示しているといえますが,人間が想起することができるのは,かつて経験したことのみに限られるというのは当然といえばあまりに当然のことだからです。そして第二部定理二六が,表象の種類のうちの想起memoriaに関していっていることは,実はこのことであるといえると思います。
 外部の物体がある人間の身体を刺激したとき,その人間の精神のうちにどういったことが生じるのかということを示したのが第二部定理一七であるわけですが,実際にはこれだけではありません。第二部定理三八で示されていることも生じなければならない筈だからです。いい換えれば,人間は外部の物体によって刺激されるたびごとに,その外部の物体を表象するでしょうが,同時に第二部定義一に示されている事柄を共通概念notiones communesとして十全に認識するcognoscereのではないかと思うのです。これは外部の物体は物体であるということにより,人間の身体と共通しますから,間違いないと思います。しかるにこの認識cognitioは,その外部の物体に本性naturaの上で先立つ神Deusの延長の属性Extensionis attributumの十全な認識を含んでいる,というか正確にいうなら延長の属性の認識に含まれていなければならないということはすでに明らかになっています。よって,人間の精神が外部の物体を表象するときには,同時にこの精神のうちに,神の延長の属性が十全な観念idea adaequataとして形成されているということになります。
 このとき,人間の外部の物体の表象imaginatioというのが,こうした様式を通してのみ生じるのであるとするなら,人間の精神が神の延長の属性を認識する様式というのも,この様式を通してのみであるということなのではないだろうかと,僕は考えるのです。
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農林水産大臣賞典さきたま杯&第二部定理二六

2011-06-01 19:10:10 | 地方競馬
 このブログにおけるレース表記上は同じ重賞でも,今年からJpnⅡへと格上げになった第15回さきたま杯
 先陣争いもひとつの焦点でしたが,ジーエスライカーが難なく逃げました。ラブミーチャンが2番手で追い掛け,キングスゾーン,ナイキマドリードまでが先行集団。前半の600mは35秒6でハイペース。ラヴェリータやセレスハントなどは追走に汲々としているように見えました。
 キングスゾーンは向正面で脱落。3コーナーを回るとラブミーチャンがジーエスライカーに並び掛けていき,ナイキマドリードがさらにその外を追ってきて3頭は一団。直線ではラブミーチャンが脱落し,抜け出したのはナイキマドリード。そのまま後続を寄せつけることなく優勝。ジーエスライカーが一杯に2着に粘り切り,先行集団の後ろからレースを進めたスーニが追い込んで3着。
 優勝したナイキマドリードは昨年暮れのオーバルスプリント以来の勝利で重賞は初制覇。能力的には好勝負になると考えていた1頭で,距離はこれくらいあった方がいいのでしょう。短距離路線だけは地方馬も中央馬に伍して戦えている現況ですので,今後もある程度の活躍が見込めるだろうと思います。
 ここも先週の大井記念と同じ大井の戸崎圭太騎手,船橋の川島正行調教師のコンビ。さきたま杯は揃って初勝利です。

 僕が仮説として立てようとしている事柄を『エチカ』に訴えて探求していく場合,援用できそうな定理Propositioというのがいくつかあるのですが,ここでは第二部定理二六というのを利用してみることにします。
 「人間精神は自己の身体の変状[刺激状態]の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する」。
 これは外部の物体corpusには限りませんが,人間の精神mens humanaがあるものについて,それが現実的に存在すると認識する場合,すなわち実際にそうしたものがこの人間の現前に存在しているのかどうかということとは関係なく,何かあるものが現実的に存在すると知覚するpercipereとき,スピノザの哲学では,その人間の精神が,そうした現実的に存在すると知覚する対象のことを表象するimaginariというわけです。したがってこの定理が意味しているところは,もしも人間が外部の物体を表象するとすれば,それはその人間の身体corpusの刺激状態を通してのみであるということになります。
 次にこの定理の証明Demonstratioですが,まず第二部定理一七によって,人間の精神がその人間の身体の刺激状態を通して外部の物体を表象するということは問題ありません。より正確を期すならば,これにさらに第二部定理一七系を加えることができます。ところで,第二部定理一三によれば,ある人間の精神というのはその人間の身体の観念ideaのことです。よって,第二部定理七により,ある人間の精神の秩序ordoというのは,その人間の身体の秩序と,平行論における平行関係,すなわち同一個体であることになります。よって,もしもある外部の物体が,ある人間の身体を刺激するなら,この人間の精神もまたこの刺激を知覚するということになりますが,もしも身体が外部の物体によって刺激されないならば,この人間の精神がそうした物体を知覚するということはあり得ません。つまり,その人間の精神は,そうした外部の物体が現実的に存在するかしないか,いい換えればそうした物体を表象するのかしないのかという以前の問題として,その物体を認識するということすら不可能であるということになるでしょう。よって,人間が外部の物体を表象するのは第二部定理一七,さらに多く見積もっても第二部定理一七系の仕方だけであり,それ以外にはないということになるのです。
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