スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

震災復興支援競走農林水産大臣賞典かしわ記念&第二部定理一・二

2011-05-05 18:54:28 | 地方競馬
 2強対決という戦前のムードであった第23回かしわ記念
 エスポワールシチーはやや出負け。ラヴェリータの逃げは事前に考えていた展開のひとつ。グランシュヴァリエが並ぶように追走し直後にフリオーソ。ロードバリオスを挟んでエスポワールシチーも巻き返していきました。前半の800mは48秒3で,これはミドルペースの部類でしょう。
 グランシュヴァリエは3コーナーまでで後退。自然と2番手となったフリオーソがラヴェリータに並び掛けていき,エスポワールシチーも3番手まで進出。直線は前を行く2頭が叩き合い,ラヴェリータもかなり食い下がって一瞬は差し返す脚さえあったように見えましたが,最後は底力の差でフリオーソが前に出て優勝。ラヴェリータが2着に粘り,エスポワールシチーは1馬身半遅れての3着。
 優勝したフリオーソは1月の川崎記念以来の大レース6勝目。ここはエスポワールシチー以外には負けることが考えにくいメンバー構成。その相手が発馬で不利があり,状態も万全とは思えませんでしたので,順当といっていい勝利かもしれません。逃げるのがベストであったのが,差しても能力を発揮できるようになってきていて,年齢的には考えづらいのですが,さらに成長したという印象があります。Furiosoはイタリア語で猛烈に。音楽用語です。
 騎乗した大井の戸崎圭太騎手は先月は京浜盃を勝ちました。大レースは川崎記念以来でかしわ記念は初勝利。管理している船橋の川島正行調教師は2006年以来の3勝目。

 有限なfinitum知性intellectusの代表としての人間の精神mens humanaに的を絞って,人間の精神がどのようなものをどのようにして表象するimaginariのかということを確認してみることにします。これによって,僕が腑に落ちないものを感じてしまう疑問の在処というのももう少し具体的に理解してもらえるのではないかと思います。
 まず,第二部公理五が示していることは,人間の精神が認識するcognoscereものは,物体corpus,すなわち延長Extensioの様態modusであるか,そうでなければ思惟の様態cogitandi modi,たとえば観念ideaとか意志voluntasとかいったものだけだということです。第一部定義六が示しているのは,神Deusの本性essentiaは無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されているということであり,僕はこの定義Definitioを名目的ではなく実在的な意味で理解しますので,現に無限に多くの属性が実在すると考えますが,人間の精神が認識することができるのは,そのうちのたかだかふたつにすぎないということになります。
 人間が物体か思惟の様態しか認識しないということはごく当然のことですが,現在の考察の観点からみると,そんなに無視することができるものとは思えません。というのも,第一部定義四の知性を人間の知性と規定した場合には,上述のことから,無限に多くある神の属性のうち,ただ延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのみを人間は認識し得るということになると思われるからです。
 実はこのことからすでに,第一部定義四というのを,認識論的にではなく,実在論的に理解するべきであるということが,『エチカ』の中から出てきていると僕は考えています。それを示しているのが第二部定理一と第二部定理二です。
 「思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である」。
 「延長は神の属性である。あるいは神は延長した物(res extensa)である」。
 思惟についてが第二部定理一,延長についてが第二部定理二です。そしてこれらの定理Propositioが,実在論的な観点からいわれているということはあまりに明白でしょう。ここでは人間の精神のみをその対象として扱っていますから,それに限定していいますが,これらふたつの定理というのは,人間の精神がそれらふたつの属性をどのように認識するのかという観点とは無関係に成立しているからです。いい換えれば人間の精神がふたつの属性を誤って認識したとしても,あるいは認識しないとしても,思惟も延長も神の属性であるでしょう。
コメント
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