スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&深い谷

2011-06-15 19:31:39 | 将棋
 古くは炭鉱で栄えた福岡県飯塚市での対局となった第22期女流王位戦五番勝負第三局。
 清水市代女流六段の先手で甲斐智美女流王位の2手目△3ニ飛戦法。角交換から後手は美濃囲いで先手は片矢倉。先手が早めに自陣角を打つ序盤戦。先手が龍と馬を作る中盤の戦いで,その分はリードしているように感じられました。観戦は終盤に突入してからで下図から。
                         
 △同馬は当然の一手でしょう。▲5ニ歩と打ち△6一飛に▲6二金。ここで飛車を逃げる手はないので△8六歩。▲同金右には△8五歩。▲6一金と飛車を取るか,▲7六金寄と逃げておくかのどちらかと考えていましたが,後者が選択されました。後手は△6二飛と取り,▲同馬に△7八銀。先手玉に詰めろが掛かりました。▲8八歩と受け△8七銀不成に▲同歩(第2図)。
                         
 ここは先に△8八金もあるところなのでしょうが,単に△9五歩は僕が検討していた手。ただ▲8八銀と受けられてみるとやや劣ったかもしれません。それでも△9六歩は当然の追撃。▲7九銀もこの一手。これ以上は迫れないので△7ニ金と受けに回りましたが,この局面では止むを得ないのではないかと思います。手番を握った先手は▲6一飛。これに対して△7一金打と屈強に抵抗。▲同馬△同金▲3一飛成(第3図)の二枚換えの順に進みました。
                         
 再び手番は後手△9七歩成▲同桂は予想通りで△9六歩まではいくだろうと思いきや△5三角と打ちました。▲4二銀は浪費の感もありますが最善手のように思いました。△7五銀▲5三銀成△7六銀はつまらない感じなので△7五角はこういきたくなります。ただ▲同金△同銀▲5三角となっては局面がはっきりしてしまったように思いました。ここで後手が投了。第2図で△9五歩と突いたのが敗着だったかもしれません。
 清水六段が1勝を返しました。第四局は来週の火曜です。

 人間の精神による事物の認識が,スピノザが説明する意味において知覚と概念のどちらかに分節できるということ,いい換えれば,知覚でも概念でもないような精神による事物の認識というのはあり得ないということ,この点については僕はどうしても譲ることはできません。そこで僕がそうした立場というものを堅持したとして,マシュレの分析の立場から僕の仮説というものを概観するならば,これもあくまでも僕の理解の範囲の中でということにはなりますが,第二部定理三八の仕方で人間の精神のうちに第二部定義一で示されていること,またそれに本性の上で先立つものとして神の延長の属性が共通概念として十全に認識されるとき,これは知覚である,つまり概念と知覚を明確に分節した上での知覚であるとみなさなければならないように思えます。そしてこのことは,単に神の延長の属性の場合に限った話ではなくて,共通概念全般,したがって第二部定理三八だけでなく,第二部定理三九のような仕方で人間の精神が共通概念を形成する場合にも,やはり同様に知覚であると規定しなければならないと思えます。逆にいえば,僕がこのことを受け入れるなら,僕とマシュレとの間で,一定の合意が図り得るものと思えるのです。
 ところが,僕はそのような解釈にも難があると考えるのです。したがって僕とマシュレとの間には,どうしても橋を架けることができないような深い谷があるように僕には思えてなりません。
 そもそもマシュレは,スピノザが第一部定義四で,概念ということばではなく知覚ということばを用いているという点からその訴訟を開始しています。その立場をマシュレ自身が訴訟過程の全体にわたって維持しているとは僕は必ずしも考えてはいませんが,そうした点に倣っていうならば,そもそも共通概念というのは概念といわれているのだから,知覚ではなくて概念でなければならないのだということが可能でしょう。もっとも,僕自身は,岩波文庫版の訳者である畠中尚志もたびたび指摘しているように,スピノザの用語の用い方にはわりとルーズな面があると考えていますから,このことを強硬に主張しようとは思いません。しかし一方で,確かに共通概念というのは,知覚されるものではなくて概念されるものなのだといわれなければならない根拠もあると思うのです。
コメント
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