スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&第一部定義四まとめ⑤

2011-06-21 19:56:56 | 将棋
 徳島といえば阿波踊り。多くの日本人はそう連想するのではないでしょうか。第22期女流王位戦五番勝負第四局は徳島市での対局でした。
 甲斐智美女流王位の先手で三間飛車。清水市代女流六段は棒金で対抗。先手は飛車を6筋に転換し,桂損の代償にその飛車を成り込み,自陣に引きつけました。後手も桂馬を代償に飛車を成るという,序盤から考えるとやや派手な展開。観戦はかなり進んで下図から。
                       
 まずは▲2七王と引きました。△4六成桂▲6五龍と攻め駒の角取り。△6四銀は面白くはありませんが仕方ないところでしょうか。▲6七龍は予想していた手。次は△3三桂か△9六龍と思いましたが後者でした。ここまでの手順から受けきるのが先手の方針と思えますので,次の▲4八金直もそれに則った手。ここで△7三銀と引いたのは,せっかく打った銀を使うという意図でしょう。▲6五龍に△4五成桂と引き▲7三角成△同角▲4五龍の二枚換えコースに。成桂は取られましたが,銀は打っただけに終わりませんでしたし△6三角(第2図)の間接王手龍が掛かりましたから,この手順は後手の方が得をしたように感じました。
                       
 受け方はけっこう難しく指されたのは▲3六銀。これには△4五角▲同銀△2五飛の王手銀取り。▲3八王△4五飛までは一本道で,ここは混戦になっていると思いました。一連の手順で駒損したのでもう受けるのではなく何か反撃したいところ。▲2八香でした。△6七歩はまったく考えていなかった手。次の▲4六歩もこの局面では予想できませんでした。△同龍は自然に感じます。そこで▲4七歩と打ちましたので,△4八飛成とされる手を防いだのではないかと予測。△6六龍と逃げるかと思いましたが△7六龍。ただ▲6七銀△同龍▲5六銀(第3図)と進みましたから,龍の逃げ場所はどちらでも同じことでした。
                       
 両取り逃げるべからずで△9五角。▲6八桂は打つかもしれないと思っていました。△5六龍▲同歩に△3三銀打と受けましたがこの手には驚きました。手番を得た先手は▲8二飛。ここで先手がリードしているように思えました。△6七歩にももう構わず▲6三角。△6五飛▲7四角成は必然ではありませんが想定した手順のひとつ。そこで△6八歩成。▲6五馬△5九と(第4図)は当然です。
                       
 ここでの▲4四桂にもびっくり。これは△同銀の一手。▲2三香成△同玉▲2四歩。ここは△3ニ玉▲2五飛みたいな展開もあるかと思いましたが△同玉は僕が本線で考えていた手。▲2ニ飛△2三歩は部分的には必然に感じられます。▲2六金(第5図)は攻防ですが,これでは先手がやり損なったように思えました。
                       
 今度は後手が攻める番。△3五桂と打ちました。▲3六歩の催促に△2七銀と打ち込めば▲同金△同桂成▲同王までは当然。ここで△7三角だとどうなるかと考えていたら△3五桂の王手。取れないので▲3七王でしたがさらに△2六金。攻防ともに見込みがなくなった先手がここで投了となっています。
 清水六段がタイに持ち込みました。第五局は来週の水曜です。

 この仮説を理解するために,注意しておいてほしい点があります。まずひとつは,属性ということばによる表象は,属性そのものに関する表象とは異なるのだと僕が考えている点です。もちろんことばによる表象と,そのことばによって一般的な意味で指示されるような対象との表象が同一の表象であるという場合があるということについては僕は認めます。しかし,この場合には,ことばによって指示されている事物によって,それ以前にそうした同一の表象をなす人間の身体が刺激されたことがあるということがその前提となると思うのです。いい換えれば,こうした表象は,表象の種類としては,想起に該当するのだと僕は考えます。しかるに想起の前提には何らかの知覚,このブログでいう表象の種類のひとつとしての知覚がどうしても必要です。ところがこの仮説は,そもそも人間が属性をそのような意味では知覚することがないということを意味しているのです。
 仮説が正しいとした上でのこうした結論というのは,マシュレが『ヘーゲルかスピノザか』の中で行っている属性について省察と同様であるといえます。しかし僕はマシュレの結論に関しては同意しないでもないですが,マシュレの分析の過程に関しては,ある疑問を抱いています。ただしこれは,今回のテーマである第一部定義四に関係するような点ではなく,むしろスピノザの哲学において能動と受動ということを,とくに精神の能動と精神の受動ということをどのように理解するべきなのかということに関係しているように僕には思えます。よってこれは今回のテーマである第一部定義四を巡る考察が本来的に含むべきである範疇をあまりに大きく逸脱しているように感じられます。ですので,この点については別に考察するということにして,この第一部定義四の考察はここまでで終了するということにしました。
 これで第一部定義四のまとめも終ることにします。次回のエントリーからは,糖尿病共生記になりますが,それに一区切りがつきましたら,よほど事情に変化が生じない限り,今回の考察の最後の課題として残した,能動と受動に関する考察を開始するということにします。前回の共生記はあまりに多くのことが起こりすぎ,かなり長期化してしまいましたが,今回はそういったことがないように願っています。
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