スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災者支援函館記念&マシュレの分析

2011-06-14 18:46:45 | 競輪
 ニューヒーローの誕生から約1週間。今日は函館記念の決勝。並びは佐藤-伏見-山田の北日本,木暮-矢口-兵藤の群馬,市田-大塚-室井の西日本。
 矢口がSを取って木暮の前受け。4番手が佐藤,7番手が市田という,個人的にはやや意外な周回。残り2周のホームに入るところで市田が上昇,このラインが木暮を叩くと佐藤が続き,市田は粘らずに4番手に引き,打鐘から佐藤の抑え先行に。一列棒状のままバックまで進み,木暮が発進するも前には届かず。市田が直線手前から踏み込むと,伏見も応戦。一旦は差が詰まりましたが再び離すように伏見の優勝。市田が2着で,市田マークの大塚が3着。
 優勝した福島の伏見俊昭選手は昨秋の共同通信社杯以来の優勝。記念競輪は5月の取手記念以来で通算24勝目。無風で番手を回れましたので,力量からすればごく自然な優勝でしょう。もっと早く発進すればもう少し楽に勝つことができ,山田まで連れ込むことができたかもしれませんが,自身も先行で頑張った選手ですから,佐藤をできる限り残そうということでこうした運行になったものと思います。近年は自力のレースは少なく,展開に左右される面はありますが,チャンスがあればしっかりとものにできるだけの力はあるので,まだ活躍を続けられる選手だと思います。
                         

 マシュレは当該部分の考察の冒頭で,スピノザが第一部定義四において知覚するpercipereということばを用いていることにまず注目します。すなわちこれを第二部定義三説明における知覚と概念とは異なるというスピノザの言及から,あくまでも概念ではなくて知覚である,いい換えれば精神の能動ではなく精神の受動であると解するのです。
 もしもこうしたことを前提としてマシュレが第一部定義四に関して何らかの結論を導き出しているなら,僕はこれに対しては全面的に反対します。僕はここの部分の知覚に関しては,精神の受動という意味での知覚ではなく,むしろ単に知性があるものを認識するという意味に理解するべきだと考えるからです。これは岩波文庫版の訳者である畠中尚志が与えている注釈と同一です。したがって僕はこの点に関してはマシュレの見解よりも畠中尚志の見解の方に同意しますし,それを支持します。
 しかしその後の訴訟の過程において,マシュレはあたかもこの前提を破棄しているかのように僕には思えるのです。というのはマシュレは,僕がマシュレのことばをそのように理解するという前提で変換するなら,知性による属性の認識というのは,精神の能動でもないし精神の受動でもないという主旨の議論を展開するからです。そして僕が理解するところでは,この主旨の方が,マシュレが第一部定義四に関する結論を導き出す上で,重要になっていると思えます。
 これでみれば,マシュレは精神の能動でもなく精神の受動でもないような,あるいは能動であるとも受動であるともいえないような事物の認識というものがあると仮定しているように僕には思えます。しかし僕は,精神による事物の認識というものは,能動であるか受動であるかのどちらかである,いい換えれば精神による事物の認識は,スピノザがそれを厳密に分節した意味において,概念であるか知覚であるかのどちらかであると考えています。このことは,僕の訴訟過程の上ではその必要性がなかったために言及こそしませんでしたが,僕の考察は,とくに第一部定義四に限ったわけではなく,すべてこの前提に立ったものです。
 僕がマシュレの分析に関して抱くような疑問というのは,まさにここの部分と関連してくるのです。各々の主張に折り合いをつけることが,この点において困難になっていると思えます。
コメント
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