第69回東京大賞典。
ミックファイアはあおって1馬身の不利。ノットゥルノの逃げを予想していたのですが,ウィルソンテソーロの逃げになりました。リードは1馬身から2馬身くらいの間で推移。2番手にドゥラエレーデ。3番手にノットゥルノとグロリアムンディ。5番手にキングズソードとミックファイア。3馬身差でテンカハル。8番手にウシュバテソーロ。6馬身差でマンガンという隊列。前半の1000mは63秒8のミドルペース。
3コーナーにかけて馬群は縮まってきましたがウィルソンテソーロ,ドゥラエレーデの順は変わらず,3番手はノットゥルノとグロリアムンディの併走。その後ろにキングズソードとミックファイアが併走し,追い上げてきたウシュバテソーロまでが優勝圏内。直線に入ると逃げたウィルソンテソーロが後ろとの差を広げて抜け出し,逃げ切り態勢に入ったのですが,大外から追い込んだウシュバテソーロが計ったように差し切って優勝。逃げ粘ったウィルソンテソーロが半馬身差で2着。2番手のドゥラエレーデが流れ込んでクビ差の3着。
優勝したウシュバテソーロは日本テレビ盃以来の勝利。大レースはドバイワールドカップ以来の4勝目。第68回からの連覇で東京大賞典2勝目。ここは実績では断然なので優勝は順当なもの。予想していた展開とは異なったのですが,明らかに先行していた馬が有利なレースをやや離れた後方から差し切ったのですから,力の違いを見せたといっていいでしょう。展開が結果に占めたウェートは大きかったと思いますが,2着馬と3着馬はチャンピオンズカップの2着馬と3着馬ですから,現状の力通りの結果ではあったといえると思います。父はオルフェーヴルで母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。
騎乗した川田将雅騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース42勝目。東京大賞典は初勝利。管理している高木登調教師はドバイワールドカップ以来の大レース11勝目。第61回,69回に続き連覇となる東京大賞典3勝目。
スピノザが『エチカ』の草稿をライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに見せることを許可しなかったということは,書簡七十二から明らかになっています。僕の推測ではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはこれを守り,ライプニッツに草稿のすべてを見せるということはありませんでした。ライプニッツとチルンハウスとの間で交わされた会話の中で,チルンハウスが部分的にスピノザの思想をライプニッツに語ってしまうというようなことがあったということまでは僕は否定しませんが,草稿の全体を読んで研究するということはライプニッツにはできなかったと僕は考えています。だからライプニッツは,知り得ていただれがスピノザの遺稿集Opera Posthumaを編集しまた印刷しようとしているのかという情報を,ステノNicola Stenoには秘匿したのだと思います。他面からいえば,その情報をステノに伝えることによって遺稿集の発刊が阻止されてほしくない,発刊された遺稿集を入手したいという思いの方が,ライプニッツには大きかったのだと思います。
チルンハウスはライプニッツには『エチカ』の草稿を見せなかったのですが,スピノザが死んだ後,どういう経緯があったか定かではありませんが,この草稿がステノの手に渡りました。これは2010年以降に明らかになった史実なので,工藤は知り得なかったことなのですが,スピノザとカトリックの間の関係としての史実には相違ありませんからここにも記しておきます。
『エチカ』の草稿を入手したステノは,もしもこのようなものが出版されて多くの人に読まれるようなことがあれば,カトリックを危機に晒すことになるので,もしも出版されるようなことになればすぐに禁書処分にした方がよいという旨を上層部に伝えます。この上申書が提出されたのは1677年9月4日と特定されています。スピノザが死んだのはこの年の2月21日です。遺稿集は同年の年末には出版されていますので,スピノザの死と遺稿集出版の中間にあたることになります。遺稿集の禁書指定は異例の早さでなされたのですが,これは事前にステノからの上申書が提出されていたことと無関係であったとは考えられません。つまりステノは死後のスピノザとも一定の関係があったということができます。
ミックファイアはあおって1馬身の不利。ノットゥルノの逃げを予想していたのですが,ウィルソンテソーロの逃げになりました。リードは1馬身から2馬身くらいの間で推移。2番手にドゥラエレーデ。3番手にノットゥルノとグロリアムンディ。5番手にキングズソードとミックファイア。3馬身差でテンカハル。8番手にウシュバテソーロ。6馬身差でマンガンという隊列。前半の1000mは63秒8のミドルペース。
3コーナーにかけて馬群は縮まってきましたがウィルソンテソーロ,ドゥラエレーデの順は変わらず,3番手はノットゥルノとグロリアムンディの併走。その後ろにキングズソードとミックファイアが併走し,追い上げてきたウシュバテソーロまでが優勝圏内。直線に入ると逃げたウィルソンテソーロが後ろとの差を広げて抜け出し,逃げ切り態勢に入ったのですが,大外から追い込んだウシュバテソーロが計ったように差し切って優勝。逃げ粘ったウィルソンテソーロが半馬身差で2着。2番手のドゥラエレーデが流れ込んでクビ差の3着。
優勝したウシュバテソーロは日本テレビ盃以来の勝利。大レースはドバイワールドカップ以来の4勝目。第68回からの連覇で東京大賞典2勝目。ここは実績では断然なので優勝は順当なもの。予想していた展開とは異なったのですが,明らかに先行していた馬が有利なレースをやや離れた後方から差し切ったのですから,力の違いを見せたといっていいでしょう。展開が結果に占めたウェートは大きかったと思いますが,2着馬と3着馬はチャンピオンズカップの2着馬と3着馬ですから,現状の力通りの結果ではあったといえると思います。父はオルフェーヴルで母の父はキングカメハメハ。母の7つ上の半兄に2003年の東京新聞杯を勝ったボールドブライアン。Ushbaはジョージアにある山の名前。
騎乗した川田将雅騎手は朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース42勝目。東京大賞典は初勝利。管理している高木登調教師はドバイワールドカップ以来の大レース11勝目。第61回,69回に続き連覇となる東京大賞典3勝目。
スピノザが『エチカ』の草稿をライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに見せることを許可しなかったということは,書簡七十二から明らかになっています。僕の推測ではチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはこれを守り,ライプニッツに草稿のすべてを見せるということはありませんでした。ライプニッツとチルンハウスとの間で交わされた会話の中で,チルンハウスが部分的にスピノザの思想をライプニッツに語ってしまうというようなことがあったということまでは僕は否定しませんが,草稿の全体を読んで研究するということはライプニッツにはできなかったと僕は考えています。だからライプニッツは,知り得ていただれがスピノザの遺稿集Opera Posthumaを編集しまた印刷しようとしているのかという情報を,ステノNicola Stenoには秘匿したのだと思います。他面からいえば,その情報をステノに伝えることによって遺稿集の発刊が阻止されてほしくない,発刊された遺稿集を入手したいという思いの方が,ライプニッツには大きかったのだと思います。
チルンハウスはライプニッツには『エチカ』の草稿を見せなかったのですが,スピノザが死んだ後,どういう経緯があったか定かではありませんが,この草稿がステノの手に渡りました。これは2010年以降に明らかになった史実なので,工藤は知り得なかったことなのですが,スピノザとカトリックの間の関係としての史実には相違ありませんからここにも記しておきます。
『エチカ』の草稿を入手したステノは,もしもこのようなものが出版されて多くの人に読まれるようなことがあれば,カトリックを危機に晒すことになるので,もしも出版されるようなことになればすぐに禁書処分にした方がよいという旨を上層部に伝えます。この上申書が提出されたのは1677年9月4日と特定されています。スピノザが死んだのはこの年の2月21日です。遺稿集は同年の年末には出版されていますので,スピノザの死と遺稿集出版の中間にあたることになります。遺稿集の禁書指定は異例の早さでなされたのですが,これは事前にステノからの上申書が提出されていたことと無関係であったとは考えられません。つまりステノは死後のスピノザとも一定の関係があったということができます。