スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典東京大賞典&神学と哲学

2015-12-29 19:20:41 | 地方競馬
 地方競馬の年末の大一番,第61回東京大賞典
 ナムラビクターは出負け。先手を奪ったのはコパノリッキー。ホッコータルマエが2番手でマーク。3番手はワンダーアキュートとハッピースプリントの併走。サミットストーン,グランドシチー,サウンドトゥルーの隊列で最初の正面を通過。向正面に入ると順位こそ変わらなかったものの,前の4頭とサミットストーンの間が4馬身くらい,グランドシチーとサウンドトゥルーの間も2馬身くらいと,隊列は長くなっていきました。最初の1000mは61秒3のミドルペース。
 3コーナーを回ると前の2頭と3番手との差も開いていき,直線の入口ではコパノリッキーとホッコータルマエが雁行。直線でホッコータルマエが競り落として先頭に立ちましたが,大外からサウンドトゥルーが猛然と追い込み,1馬身4分の3差をつけて差し切り勝ち。ホッコータルマエが2着。ゴール直前でワンダーアキュートがコパノリッキーをクビだけ捕えて6馬身差の3着。
 優勝したサウンドトゥルーは10月の日本テレビ盃以来の勝利で大レース初制覇。そのときは展開の利があってのもので僕自身はその時点では半信半疑だったのですが,その後の2戦の内容から,大レースを勝てるだけの力があるということは分かっていました。今日も能力の高い2頭が前で競り合った分の有利さはあったかと思います。自分で動いて勝ちにいくというレースはまだしてなく,この点はとくにダートの競馬では弱点になります。高い能力はあっても,取りこぼす可能性もある馬というように考えておいた方がいいかもしれません。母の父が昨日死亡したフジキセキ
 騎乗した大野拓弥騎手と管理している高木登調教師はJBCレディスクラシック以来の大レース制覇で東京大賞典初勝利。

 神学と哲学の関係については,当時は以下のふたつの考え方が支配的で,双方が対立していたといえます。
 ひとつは哲学が神学に従属しなければならないという考え方です。プロテスタントのカルヴァン派はもちろんこのスタンスです。自由思想を危険思想とみなし,それを敷衍するような書物が発売禁止になったのは,カルヴァン派の影響があったのは間違いないと僕は考えます。議会派が実権を握っていた時代から,そのような運動を起こしていたのは確定できる史実であり,王党派が支配するようになれば,その運動の効果は表出してくると解するのが妥当だからです。
 ブレイエンベルフWillem van Blyenburgはスピノザへの書簡の中で,自身の自然的認識が聖書に示されている神のことばと矛盾した場合には,後者に権威を認めるのだといっていました。これは明らかに哲学を神学に従属させることを選択しているといえます。ブレイエンベルフは牧師であったわけではありません。同じ書簡の中では自身のことをキリスト教徒的哲学者としています。おそらくデカルト主義者の中にも,この種のキリスト教徒的哲学者が少なからず存在していたと思われます。つまり支配的といったふたつの考え方のうち,圧倒的多数がこちらに属していたのではないかと僕は考えています。
                                    
 デカルト自身についていえば,僕は必ずしもこちらに属していたとは考えません。デカルトは表立って対立することを避けようとしていたのは間違いないと思いますが,信念として哲学が神学に従属しなければならないと考えていたわけではないと思います。むしろブレイエンベルフがいっているような神のことばの中に,理性的認識から外れているようなことがあるとするなら,そちらの方に権威を置こうなどと少しも考えてはいなかったのは間違いないと思います。ただそうした考えを表明はしなかったというだけのことでしょう。少なくともデカルト主義者のうちには,デカルトよりよほど反動的な思想家が存在したと僕は判断します。
 マイエルLodewijk Meyerの立場はこれと逆です。すなわち神学が哲学に従属しなければならないというものです。少数派でしたが,こういう思想家も間違いなく存在しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする