スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&平行論からの帰結

2021-12-24 18:57:49 | 将棋
 21日に指された第47期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第一局。対戦成績は永瀬拓矢王座が5勝,郷田真隆九段が4勝。
 振駒で郷田九段の先手となり,矢倉。後手の永瀬王座は中住まいに構え,先手は穴熊に潜りました。この将棋は戦いになった後,後手が駒得になりましたので,そのあたりで後手がリードしたようです。
                                        
 後手が5七の銀を成ったところ。これを☗同金と取ると☖4八角の両取りがあります。それに対しては☗3七桂という返し技があるのですが,☖6六角成☗4五桂では苦しいとみたか,☖3五歩と突きました。ただ☖7七成銀☗同金では後手のリードが決定的になったようにも思われます。
 後手は☖6八角と追撃。☖3五角成とされてはじり貧とみて☗3四歩と取り込みましたが☖9五歩☗同歩☖7七角成☗同桂☖7八金で先手玉は寄り形になりました。
                                        
 先手はもう少し頑張ることはできたと思いますが,大勢への影響はなかったのかもしれません。
 勝者組の永瀬王座が勝ったので挑戦権を獲得。棋王戦五番勝負への出場は第43期以来4年ぶり2度目。第一局は来年の2月6日に指される予定です。

 ごく簡単な仕方で説明します。
 第二部定理一三系にあるように,人間は身体Corporeと精神Menteから成っています。このとき,精神は思惟の様態cogitandi modiで,その観念対象ideatumは第二部定理一三により身体です。つまり人間の精神mens humanaと人間の身体humanum corpusは平行論における同一個体です。この部分の考察では,この精神のことを,僕は身体の精神といっているのです。
 身体と精神,あるいは同じことですが身体と身体の精神が異なるものであるということは,とくに説明するまでもなく明白でしょう。そうであれば,身体の精神と精神の精神が異なるものであるということも明白だと理解できる筈です。なぜなら,身体の精神と精神の精神の間にある関係は,平行論における同一個体としての人間の身体とその人間の精神の間にある関係と完全に一致しているからです。つまり,人間が身体と精神から成っているといわれるのと同じ意味で,人間の精神は,身体の精神と精神の精神から成っているといわれることになるのです。さらに人間の精神の精神は,人間の精神の精神とその人間の精神の精神の精神とから成っているという具合に,無際限に続いていくことになるのです。ですから,人間には異なった精神が無際限にあるという結論が導出されることになります。
 ただし僕たちはこうしたことを明瞭に知覚するpercipereことができるわけではありません。むしろ身体の精神が認識しようと精神の精神が認識しようと,同じように精神,自分の精神が認識していると知覚しているでしょう。そのようになるのにはいくつか理由がありますが,ひとつは認識するcognoscereのは人間の精神,この場合には身体の精神だけでなく精神の精神やその精神といったすべての精神を含んだ上での精神ですが,そうした精神であって身体ではないということです。このために僕たちは,自分の身体と自分の精神が異なると知覚するようには,自分の精神と自分の精神の精神が異なるとは知覚することができないのです。
 もうひとつは,ある観念が観念対象となるためには,その観念が本性naturaの上で前もって存在していなければならないという点です。一方,その観念が前もって存在していさえすれば,その観念の観念は形成され得るという点です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする