スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&宇宙と自然

2020-09-07 18:54:16 | 将棋
 鶴巻温泉で指された昨日の第5期叡王戦七番勝負第八局。持ち時間は6時間。
 豊島将之竜王の先手で角換り。後手の永瀬拓矢叡王の陣形に不備があるとみた先手が桂馬と飛車だけで速攻。その後の後手の対応もよくなかったようで,この仕掛けで優位に立った先手が一方的に押し切るという将棋でした。これは後手が不出来だったというほかない一局です。
 控室の検討で優れた手順が出ていましたのでそれを紹介。
                                        
 ここで☗6一角と打つ手があるというのがその指摘。☖5二銀で困るようですが,そこで☗3二角と打つのだそうです。
 これは☖同王なら☗5二角成。これは先手必勝でしょう。☖6一銀も☗2一角成で,これは☖同王ほどではないですが先手がかなり優勢に思えます。たぶん☖3一飛と打つのが最善の粘りでしょうが,これも☗4一金から飛車を取って,一時的には凄く駒損するものの先手がやれそうです。ですからこの手順は確かに有力だったと思います。
 実戦は☗2六角と打ちました。これも先手が悪いわけではなく,☗6一角のような派手な手順は本当はもう必要がない局面なのかもしれません。
 豊島竜王が勝って3勝3敗2持将棋。第九局は21日に指される予定です。すでに振駒が行われ,先手が豊島竜王。永瀬叡王は持ち時間6時間を選択しました。

 僕は自然Naturaという語で,神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生起するすべてのもののことを意味します。いい換えれば第一部定理一六により,無限に多くのinfinita仕方で生じる無限に多くのもののすべてを総称して自然というのです。したがって,形相的にformaliterすなわち知性intellectusの外に生じることだけを自然というのではなく,客観的にobjectiveすなわち知性のうちに生じることも含めて自然といいます。
 僕がこのようにいうのには理由があります。スピノザは自然を能産的自然Natura Naturansと所産的自然Natura Naturataに分類します。このとき,能産的自然に属するのは神あるいは同じことですが神の属性attributumであり,所産的自然に属するのはそれらの属性の必然性から生じるすべてのものです。したがって,思惟の属性Cogitationis attributumは能産的自然に属するのであり,思惟の属性の必然性から生起するもの,たとえばあの観念ideaとかこの意志作用volitioといったものは所産的自然に属することになります。つまり思惟の属性が能産的自然で,思惟の様態cogitandi modiは所産的自然であるのですから,思惟の属性に属する一切のもの,いい換えれば知性のうちに存在する客観的有esse objectivumも,総体としての自然のうちに含まれると解するのが適切だと僕は考えるのです。実際に第一部定理三一では,知性が所産的自然であるという主旨のことがいわれているので,思惟の様態である知性もまた自然の一部であるということをスピノザは肯定しているといっていいでしょう。
 しかし,書簡六十四でスピノザがいっている全宇宙というのを,このような意味での自然と等置することはできないと僕は考えます。これは自然という語と宇宙という語の相違だけに依拠してそういうのではありません。もしこれが上述のような意味での自然を意味するのであれば,質問に対する解答としての合理性を欠くでしょう。質問は,延長の属性Extensionis attributumおよび思惟の属性の直接無限様態と間接無限様態は具体的に何であるかを問うているのです。だからスピノザは,直接無限様態については,ふたつの属性について答えています。ところが間接無限様態に関する答えにある宇宙を,上述のような自然と解するなら,質問の主旨を大幅に上回ってしまうことになります。属性は延長と思惟のふたつに限定されるわけではないからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする