goo blog サービス終了のお知らせ 

スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&内在と超越

2019-08-17 18:49:17 | 将棋
 13日に指された第32期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は豊島将之名人が6勝,木村一基九段が5勝。
 振駒で木村九段の先手となり相掛かり。先に歩を交換した後手の豊島名人が浮き飛車に構えると先手は高飛車にしました。
                                        
 後手が7二の銀を上がったところ。ここで先手は☗7七桂と跳ねました。これは驚きの一手。というのも☖8七歩で先手の角は行き場所がないからです。☗8五歩と打つことはでき,後手が飛車を逃げれば☗8七金と取れますが,☖8八歩成は金銀の両取りになっています。先手は☗8四歩と飛車を取れますが☖7八と☗同銀で先手の金損になりました。
 ただしこの局面は☗8三歩成の先手になっています。後手は☖7二金打と受けました。先手は☗8五飛と回ります。後手は歩切れなのでここは☖8二銀の一手。先手は☗8九飛打とし,これにも後手は☖9二角の一手です。
                                        
 先手は金損ですが後手は駒を投資して受けていますから,ここはバランスが取れているのかもしれません。ただ実戦は第2図からすぐに☗9六歩から攻めていったため,☖3四歩から角を使っていった後手が有利になりました。ほかの形が違うと有力だと思うのですが,この形だと先手としていい指し方であるようには僕には思えなかったです。
 豊島名人が先勝。第二局は23日です。

 神Deusが自己原因causa suiであることを是認すると,神が万物の原因であるということの意味が,神は万物の内在的原因causa immanensであるということになります。ここでは詳しく説明しませんが,論理的必然性によってそうならざるを得ないのです。したがって『エチカ』でいえば,第一部定理七によって実体substantiaが自己原因であり,第一部定理一四によって神のほかに実体が存在しないのであれば,第一部定理一八の神は万物の内在的原因であるということが必然的に帰結するのです。
 第一部定理一八は,神が内在的原因であるということを,超越的原因causa transiensではなく内在的原因であるといっています。デカルトRené Descartesが神に対して作出原因causa efficiensを問うことは可能であるということについては明言したものの,神が自己原因であるということについては頑なに認めようとしなかったのは,ここに最大の理由があります。つまり,神が自己原因であるということを認めてしまうと神が内在的原因であるということも同時に認めざるを得なくなり,そうなると神が超越的原因であることはできなくなります。ですが当時の神学的な観点においては神は超越的原因であり,超越的な存在existentiaでなければなりませんでした。デカルトはそれに反することを主張することをできる限り回避しようとしたのです。このためにデカルトは,神が自己原因であるということは肯定しようとしませんでしたし,そもそも自己原因が作出原因の一部を構成するということを肯定しようとしなかったのです。このあたりのことは『近世哲学史点描』で詳しく論じられていますので,それも参考にしてください。
 デカルトがいう作出原因と,スピノザがいう起成原因causa efficiensを,同一の語であるのに別の訳を僕が与えている理由は,このことに関係しています。つまりデカルトがいう作出原因には自己原因は含まれないのですが,スピノザがいう起成原因には自己原因が含まれるのであり,しかも自己原因ということから原因すなわち起成原因の何たるかが理解されなければならないというようになっているのです。
 この相違からすると,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザがいっている原因は,スピノザ的起成原因より,デカルト的作出原因に近いのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする