スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯清麗戦&唯名論との関係

2019-08-25 19:27:05 | 将棋
 指宿温泉で指された昨日の第1期清麗戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流名人の先手で中飛車。後手の甲斐智美女流五段が三間飛車の相振飛車に。互いに向飛車に振り直した後,先手が仕掛けました。
                                         
 後手が9三の銀を上がった局面。先手は☗9五歩☖同歩☗9三歩と端に手を付けました。
 後手は☖同香と取ったのですが,ここでは☖2五歩から攻め合うのがよかったようです。ただ取るのは普通の手と思えますので,ここで攻め合いにいかなければ均衡が保てないのであれば,実戦的には先手の方が指しやすい局面であったように思えます。
 先手は☗5六角と打ちました。ここでは☖2五銀と狙われている銀を攻めに使えばまだしもだったと思います。ですが☖2三角と角を使って受けました。このために☗8三角成☖同玉☗8五歩という強襲を浴び,☖7二玉☗8四歩☖8二歩☗9二銀で8筋を破られることが確定し,一気に敗勢に陥りました。
                                         
 里見女流名人が連勝。第三局は来月7日です。

 なぜ自由な定義Definitio,すなわちそれ自身を吟味するために立てられる定義が唯名論と関係するかといえば,この種の定義は定義される事物の本性essentiaを説明することを主目的としていないからです。むしろそれ自身が吟味されるために立てられる定義ですから,定義される事物が何であるかということより,それがどのような本性を有しているのかということが重要なのであり,定義される事物が何といわれるかということはあまり関係ないのです。つまり,第一部定義一を例材にすれば,ここでいわれているのは自己原因causam suiの本性は,その本性が存在を含むessentia involvit existentiamものであるということなのではなく,本性が存在を含むもののことを『エチカ』の公理系においては自己原因というということなのです。ですから,自己原因という語は任意の語でよいのであり,それが本性が存在を含むものであるということさえ守られるなら,別の語で表現されていたとしても何ら問題はありません。そこでたとえばこれは自己原因の定義ではなく,電話の定義でも構わないのです。ただ『エチカ』の公理系の中で,本性が存在を含むもののことが必ず電話といわれるのなら,その定義はよい定義であることになるのです。
 スピノザはそれ自身の本性が説明されるための定義と,この種の任意の定義を分類しています。僕の考えでいえば,おそらく任意の定義だけでは公理系というのは成立しません。いい換えれば公理系の中には,必ずそれ自身の本性が説明されるための定義が含まれていなければなりません。なので唯名論的な定義だけで公理系が成立するとは僕は考えませんが,ある種の定義はこのように任意の定義であって構わないということは間違いないと思います。それはいい換えるなら,公理系の内部のいくつかの定義は,唯名論的であっても構わないということなのです。たとえばスピノザは第一部定義六で神Deumを絶対な無限なabsolute infinitum実体substantiamと定義し,第一部定理一一においては絶対に無限な実体が存在するということを証明しているので,神は存在することになります。ですがこれを神というのは実は任意です。神の定義は「解するintelligere」という種の定義だからです。なので神は第一部定理一一では,吟味の対象なのです。
コメント
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