昨日から有馬温泉で指された第60期王位戦七番勝負第四局。
木村一基九段の先手で相掛かり。先手も後手も引き飛車。先手の鎖鎌銀に後手の豊島将之王位が腰掛銀で対抗。その銀を進出させていき戦いに。とても長い中盤でしたが,後手の飛車が使いにくくなる展開となり,先手がリードを奪いました。
先手が5五に歩を打ち,後手が5四の銀を逃げた局面。ここで先手は☗6三銀と打ち込んでいきました。これは取れないので☖6一飛。☗5二銀成☖同銀☗7二角成で先手は馬を作りました。
後手は☖3五歩と香車を取りました。これは入玉の狙い。しかし☗5四歩☖同歩に☗6二金と打たれました。
これは飛車が逃げると☗5二金☖同王☗5四馬で入玉が望めなくなります。なので☖同飛☗同馬と進めたのですが,ここで大駒が1枚だけになってしまったのが痛く,後手は入玉こそ果たしたものの先手の入玉を阻止することはできず,点数が足りずに先手の勝ちになっています。
木村九段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日です。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は未完でしたし,スピノザの存命中に発刊されることはありませんでした。ですがそれを執筆していたときのスピノザは,公刊するつもりがあったと考えるのが妥当です。ですからそこでスピノザが展開している定義論は,公刊されたものを読むであろう不特定多数の読者に対して書かれていると解して間違いないと思います。
スピノザは存命中から,書簡でのやり取りも公にする心積もりをもっていました。そのためにスピノザは,たとえばオランダ語で交わされた書簡を,ラテン語に訳出することを行っています。ですから書簡九で展開している定義論が,不特定多数の読者に読まれる可能性があるということは,この書簡を書いている時点でもしかしたら有していたかもしれません。これはあくまでも可能性にすぎませんが,ここでの考察のためには重要な点になりますので,安全性という観点から,そういう可能性があったことにしておき,それ以上の探求はしません。
ただ,たとえスピノザが書簡九が不特定多数の読者を有すると分かっていたのだとしても,それが書簡八への返答であるということもまた,読者は理解するであろうと思っていたのは間違いないと僕は考えます。というのは,もしもスピノザが書簡九を書いている時点で,この書簡が後に不特定多数の人に読まれるであろうということを分かっていたのだとしたら,それは書簡九をそのまま公開するという意向をもっていたのだという意味になり,その場合にはスピノザは,書簡八の方もまた公開する意図を有していたと解しておかなければ著しく合理性を欠いてしまうからです。ですからスピノザは,書簡九を後には多くの人が読むことになると,それを書いている時点で確信していたのだとしても,同時にその読者は,それが書簡八への返事であるということも同時に知ることになるということをも確信していたことになるでしょう。
このゆえに,たとえ書簡九が不特定多数の読者を対象とすることをスピノザが想定していたのだとしても,これはあくまでも書簡八への返答として読まれなければなりません。もしスピノザがそれを想定していなかったなら,なおのことそうなります。
木村一基九段の先手で相掛かり。先手も後手も引き飛車。先手の鎖鎌銀に後手の豊島将之王位が腰掛銀で対抗。その銀を進出させていき戦いに。とても長い中盤でしたが,後手の飛車が使いにくくなる展開となり,先手がリードを奪いました。
先手が5五に歩を打ち,後手が5四の銀を逃げた局面。ここで先手は☗6三銀と打ち込んでいきました。これは取れないので☖6一飛。☗5二銀成☖同銀☗7二角成で先手は馬を作りました。
後手は☖3五歩と香車を取りました。これは入玉の狙い。しかし☗5四歩☖同歩に☗6二金と打たれました。
これは飛車が逃げると☗5二金☖同王☗5四馬で入玉が望めなくなります。なので☖同飛☗同馬と進めたのですが,ここで大駒が1枚だけになってしまったのが痛く,後手は入玉こそ果たしたものの先手の入玉を阻止することはできず,点数が足りずに先手の勝ちになっています。
木村九段が勝って2勝2敗。第五局は27日と28日です。
『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』は未完でしたし,スピノザの存命中に発刊されることはありませんでした。ですがそれを執筆していたときのスピノザは,公刊するつもりがあったと考えるのが妥当です。ですからそこでスピノザが展開している定義論は,公刊されたものを読むであろう不特定多数の読者に対して書かれていると解して間違いないと思います。
スピノザは存命中から,書簡でのやり取りも公にする心積もりをもっていました。そのためにスピノザは,たとえばオランダ語で交わされた書簡を,ラテン語に訳出することを行っています。ですから書簡九で展開している定義論が,不特定多数の読者に読まれる可能性があるということは,この書簡を書いている時点でもしかしたら有していたかもしれません。これはあくまでも可能性にすぎませんが,ここでの考察のためには重要な点になりますので,安全性という観点から,そういう可能性があったことにしておき,それ以上の探求はしません。
ただ,たとえスピノザが書簡九が不特定多数の読者を有すると分かっていたのだとしても,それが書簡八への返答であるということもまた,読者は理解するであろうと思っていたのは間違いないと僕は考えます。というのは,もしもスピノザが書簡九を書いている時点で,この書簡が後に不特定多数の人に読まれるであろうということを分かっていたのだとしたら,それは書簡九をそのまま公開するという意向をもっていたのだという意味になり,その場合にはスピノザは,書簡八の方もまた公開する意図を有していたと解しておかなければ著しく合理性を欠いてしまうからです。ですからスピノザは,書簡九を後には多くの人が読むことになると,それを書いている時点で確信していたのだとしても,同時にその読者は,それが書簡八への返事であるということも同時に知ることになるということをも確信していたことになるでしょう。
このゆえに,たとえ書簡九が不特定多数の読者を対象とすることをスピノザが想定していたのだとしても,これはあくまでも書簡八への返答として読まれなければなりません。もしスピノザがそれを想定していなかったなら,なおのことそうなります。