お台場で指された第1期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が21勝,甲斐智美女流五段が9勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
ヒューリック社の会長による振駒で先手となった甲斐五段が初手に居飛車を明示。里見名人は三間飛車から飛車側の金を繰り出していく類例の少ない戦型を選択しました。
先手が4三の銀を引いた局面。どちらから仕掛けるかという指し手が続いていたのですが,ここで先手から☗4五歩と戦いを挑みました。ただここは自重すべき局面であったようです。
後手は☖3六歩と突き返し☗同歩に☖4五金と金で取りました。☗同銀☖同歩は当然の進行。
ここで先手は☗5五角と打っていきましたが,ここも攻めは視野に入れずに自重すべきで,☗2六飛と浮いておけば後手も攻めを継続するのは簡単ではありませんでした。
後手は☖4六角と打ち返し☗同角☖同歩で再度の☗5五角に☖5四歩と催促。☗1一角成と香得で馬を作って先手もやれそうですが☖3六飛と走り,飛車成を防ぐ☗3七歩に☖同桂成。先手も☗2四飛と走れはするものの☖4七歩成で後手は先手でと金を作ることに成功しました。
純粋な駒割は先手の得ですが,後手のと金は確実に働く駒です。と金は金と同じとみれば実質は後手が駒得しているとも解釈できる局面で,第2図ではすでに差が開いているようです。
里見名人が先勝。第二局は24日です。
この稿の最初の方でいったように,スピノザが公理系の認識cognitioを上回る認識,つまり第三種の認識cognitio tertii generisが人間に可能であることを示さなければならなかったことには理由がありました。スピノザは事物を個別に認識するcognoscereことを目指していて,そのような個別の認識は公理系の認識である第二種の認識cognitio secundi generisでは不可能だったからです。そしてなぜスピノザが事物を個別的に認識することを目指していたかといえば,その理由の一端は第五部定理二四にあるのであって,スピノザにとってはそれこそが神Deumの認識だったからです。スピノザは第四部序言において,神Deusと自然Naturaを等置するようないい方をしていますが,それが等置されているとみられる限りでは神の認識は全自然の認識にほかなりません。このとき,全自然を一般的に認識するのではなく,全自然を構成する各々のものを個別的なものres singularisとして認識することをスピノザは目指していたのだといえば,少し分かりやすいかもしれません。いい換えればスピノザにとって自然が意味するところは自然を構成する各々の事物の総体であって,その各々の事物を個別に認識することが,自然を正しく認識するという意味であったのです。
そしてスピノザは,僕たちにはそういう認識が可能であることについては,『エチカ』の中で論証することに成功していると僕は考えます。第五部定理二二により,僕たちの身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神の中に存在しなければならず,ある人間の身体の観念がその人間の精神mensを意味する以上,それはある人間の精神の現実的本性が永遠の相の下に神の中で表現されているということを意味することになり,第五部定理三一でいわれているような形相的原因formali causaとなり得るので,それを形相的原因として僕たちの精神のうちには第三種の認識が発生し得るという手順は,瑕疵がないものだと考えるからです。
さらにいうと,僕はこのような訴訟過程というのは,現実的に存在する人間は第三種の認識によって何かを認識することができる,いい換えればそういう可能性があるということを意味するのではなく,僕たちの精神は必然的にnecessario第三種の認識で何かを認識するということを意味すると考えます。
ヒューリック社の会長による振駒で先手となった甲斐五段が初手に居飛車を明示。里見名人は三間飛車から飛車側の金を繰り出していく類例の少ない戦型を選択しました。
先手が4三の銀を引いた局面。どちらから仕掛けるかという指し手が続いていたのですが,ここで先手から☗4五歩と戦いを挑みました。ただここは自重すべき局面であったようです。
後手は☖3六歩と突き返し☗同歩に☖4五金と金で取りました。☗同銀☖同歩は当然の進行。
ここで先手は☗5五角と打っていきましたが,ここも攻めは視野に入れずに自重すべきで,☗2六飛と浮いておけば後手も攻めを継続するのは簡単ではありませんでした。
後手は☖4六角と打ち返し☗同角☖同歩で再度の☗5五角に☖5四歩と催促。☗1一角成と香得で馬を作って先手もやれそうですが☖3六飛と走り,飛車成を防ぐ☗3七歩に☖同桂成。先手も☗2四飛と走れはするものの☖4七歩成で後手は先手でと金を作ることに成功しました。
純粋な駒割は先手の得ですが,後手のと金は確実に働く駒です。と金は金と同じとみれば実質は後手が駒得しているとも解釈できる局面で,第2図ではすでに差が開いているようです。
里見名人が先勝。第二局は24日です。
この稿の最初の方でいったように,スピノザが公理系の認識cognitioを上回る認識,つまり第三種の認識cognitio tertii generisが人間に可能であることを示さなければならなかったことには理由がありました。スピノザは事物を個別に認識するcognoscereことを目指していて,そのような個別の認識は公理系の認識である第二種の認識cognitio secundi generisでは不可能だったからです。そしてなぜスピノザが事物を個別的に認識することを目指していたかといえば,その理由の一端は第五部定理二四にあるのであって,スピノザにとってはそれこそが神Deumの認識だったからです。スピノザは第四部序言において,神Deusと自然Naturaを等置するようないい方をしていますが,それが等置されているとみられる限りでは神の認識は全自然の認識にほかなりません。このとき,全自然を一般的に認識するのではなく,全自然を構成する各々のものを個別的なものres singularisとして認識することをスピノザは目指していたのだといえば,少し分かりやすいかもしれません。いい換えればスピノザにとって自然が意味するところは自然を構成する各々の事物の総体であって,その各々の事物を個別に認識することが,自然を正しく認識するという意味であったのです。
そしてスピノザは,僕たちにはそういう認識が可能であることについては,『エチカ』の中で論証することに成功していると僕は考えます。第五部定理二二により,僕たちの身体corpusの現実的本性actualis essentiaを永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念ideaが神の中に存在しなければならず,ある人間の身体の観念がその人間の精神mensを意味する以上,それはある人間の精神の現実的本性が永遠の相の下に神の中で表現されているということを意味することになり,第五部定理三一でいわれているような形相的原因formali causaとなり得るので,それを形相的原因として僕たちの精神のうちには第三種の認識が発生し得るという手順は,瑕疵がないものだと考えるからです。
さらにいうと,僕はこのような訴訟過程というのは,現実的に存在する人間は第三種の認識によって何かを認識することができる,いい換えればそういう可能性があるということを意味するのではなく,僕たちの精神は必然的にnecessario第三種の認識で何かを認識するということを意味すると考えます。