西武園記念の決勝。並びは小林‐平原の関東に佐藤‐和田圭の北日本,和田健太郎‐山賀‐内藤の南関東に水谷で渡部は単騎。
佐藤がスタートを取って小林の前受け。5番手に渡部,6番手に和田健太郎で周回。残り3周のホームから和田健太郎が上昇。バックで小林の外に並ぶと誘導を残したまま併走を続けました。ところが4コーナーで和田健太郎が小林と接触してしまい,小林が落車。結果的に先行1車になった和田健太郎はそのまま流し,後ろは引けなくなった内の平原と山賀で併走。それぞれのラインが併走となり,渡部が最後尾のまま打鐘から最終周回のホームに。和田健太郎はようやくここから発進。平原がバックに入るところで山賀をどかして番手を奪取。和田健太郎マークになった平原が最終コーナー手前から発進。楽に和田健太郎を捲って優勝。マークの佐藤が1車身半差の2着に続き,和田圭も2車身差の3着に流れ込んでこのラインの上位独占。
優勝した埼玉の平原康多選手は6月の久留米記念以来の優勝で記念競輪20勝目。西武園記念は2009年と2010年に連覇していて9年ぶりの3勝目。ここは各々のラインの先頭は先行意欲が高そうなので,先行争いがどこまで激しくなるのか,そしてどちらのラインが逃げることになるのかが最大の焦点だと思っていたのですが,本格的なレースが始まる前に小林が落車してしまい,思わぬ展開になりました。小林が落車した時点で和田健太郎は失格の可能性が大なので,思い切っては駆けにくい面があったものと想像します。実際の展開は平原と山賀の番手戦をどちらが制するのかというのがすべてというレースになり,平原がそれを制しましたので,ラインで上位独占という結果になりました。
現実的に存在する人間は,単に第三種の認識cognitio tertii generisで事物を認識するcognoscere可能性を有しているというわけではなく,現実的に存在するなら必然的にnecessario第三種の認識によって何かを認識すると僕が考える根拠は次のようなものです。
第五部定理三一にあるように,現実的に存在するある人間が第三種の認識によって何かを認識するとき,その形相的原因formali causaは,永遠aeternaである限りにおいてのその人間の精神Mensです。ここで形相的原因とされている,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神は,第五部定理二二と第五部定理二三によって,存在することが分かります。すなわち,現実的に存在するすべての人間の精神は,永遠である限りにおいての精神として存在するのです。すると,第一部定理三六によって,永遠である限りにおける精神の本性naturaから,必然的に結果effectusが生じなければなりません。いい換えれば,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神の本性は,何らかの結果に対する原因として存在しなければならないことになります。しかるに,第一部公理三により,与えられた原因から必然的に結果が生じるので,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神の本性から生じる結果は,必然的に与えられる何かでなければなりません。そしてその何かが何であるかということが,第五部定理三一に示されていることになります。なぜなら,永遠である限りにおいての精神が形相的原因であるなら,第三種の認識はそこから必然的に発生する結果でなければならないからです。他面からいえば,第三種の認識以外の何かが結果として生じることはあり得ないからです。したがって,現実的に存在する僕たちの精神が,神Deusの中で永遠の相species aeternitatisの下に表現されている限り,それを原因として必然的に結果が発生しなければならないのであり,かつ発生する結果は第三種の認識以外の何ものでもあり得ないことになります。よってすべての人間は,現実的に存在する限り,第三種の認識によって何事かを認識しなければならないことが帰結するでしょう。
このようにして,僕たちはそれを意識しているかしていないかは別としても,第三種の認識で何かを認識していることになります。
佐藤がスタートを取って小林の前受け。5番手に渡部,6番手に和田健太郎で周回。残り3周のホームから和田健太郎が上昇。バックで小林の外に並ぶと誘導を残したまま併走を続けました。ところが4コーナーで和田健太郎が小林と接触してしまい,小林が落車。結果的に先行1車になった和田健太郎はそのまま流し,後ろは引けなくなった内の平原と山賀で併走。それぞれのラインが併走となり,渡部が最後尾のまま打鐘から最終周回のホームに。和田健太郎はようやくここから発進。平原がバックに入るところで山賀をどかして番手を奪取。和田健太郎マークになった平原が最終コーナー手前から発進。楽に和田健太郎を捲って優勝。マークの佐藤が1車身半差の2着に続き,和田圭も2車身差の3着に流れ込んでこのラインの上位独占。
優勝した埼玉の平原康多選手は6月の久留米記念以来の優勝で記念競輪20勝目。西武園記念は2009年と2010年に連覇していて9年ぶりの3勝目。ここは各々のラインの先頭は先行意欲が高そうなので,先行争いがどこまで激しくなるのか,そしてどちらのラインが逃げることになるのかが最大の焦点だと思っていたのですが,本格的なレースが始まる前に小林が落車してしまい,思わぬ展開になりました。小林が落車した時点で和田健太郎は失格の可能性が大なので,思い切っては駆けにくい面があったものと想像します。実際の展開は平原と山賀の番手戦をどちらが制するのかというのがすべてというレースになり,平原がそれを制しましたので,ラインで上位独占という結果になりました。
現実的に存在する人間は,単に第三種の認識cognitio tertii generisで事物を認識するcognoscere可能性を有しているというわけではなく,現実的に存在するなら必然的にnecessario第三種の認識によって何かを認識すると僕が考える根拠は次のようなものです。
第五部定理三一にあるように,現実的に存在するある人間が第三種の認識によって何かを認識するとき,その形相的原因formali causaは,永遠aeternaである限りにおいてのその人間の精神Mensです。ここで形相的原因とされている,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神は,第五部定理二二と第五部定理二三によって,存在することが分かります。すなわち,現実的に存在するすべての人間の精神は,永遠である限りにおいての精神として存在するのです。すると,第一部定理三六によって,永遠である限りにおける精神の本性naturaから,必然的に結果effectusが生じなければなりません。いい換えれば,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神の本性は,何らかの結果に対する原因として存在しなければならないことになります。しかるに,第一部公理三により,与えられた原因から必然的に結果が生じるので,永遠である限りにおける現実的に存在する人間の精神の本性から生じる結果は,必然的に与えられる何かでなければなりません。そしてその何かが何であるかということが,第五部定理三一に示されていることになります。なぜなら,永遠である限りにおいての精神が形相的原因であるなら,第三種の認識はそこから必然的に発生する結果でなければならないからです。他面からいえば,第三種の認識以外の何かが結果として生じることはあり得ないからです。したがって,現実的に存在する僕たちの精神が,神Deusの中で永遠の相species aeternitatisの下に表現されている限り,それを原因として必然的に結果が発生しなければならないのであり,かつ発生する結果は第三種の認識以外の何ものでもあり得ないことになります。よってすべての人間は,現実的に存在する限り,第三種の認識によって何事かを認識しなければならないことが帰結するでしょう。
このようにして,僕たちはそれを意識しているかしていないかは別としても,第三種の認識で何かを認識していることになります。