スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&同じ誤り

2017-11-11 19:36:49 | 将棋
 4日と5日に臨江閣で指された第30期竜王戦七番勝負第三局。
 羽生善治棋聖の先手で5筋位取り中飛車。渡辺明竜王穴熊へ。先手も穴熊の相穴熊になりました。先手が自陣の金を動かさないで積極的に動いていきましたが,これが結果的にはやり過ぎで,苦戦を招く一因になったのではないかと思われます。
                                     
 先手が5一の飛車を成り返って粘りに出たところ。後手は☖3四金と上がりましたが,ここでは☖3一歩と受けておくのがベストで,ほかに☖1四歩というのもあったようです。
 もしそこで☗5一龍と入れば☖3三金として☗5八竜☖3四金以下の千日手で仕方がないと後手は思っていたそうです。実際には☗5八龍と引いたところでまた☖3一歩や☖1四歩があるわけですから,本当に千日手になったかどうかは分かりませんが,先手はそのように指しておくほかなかったようです。
 実戦は☗8二銀と打って攻め合いに向かいました。ただ,飛車を自陣に成り返った方針とは反しているような気がします。歩がないので受け方は難しいのですが,攻め合うというのはよくなかっただろうと思います。
 ☖5七歩☗同金☖4五歩☗3六金☖5二飛☗9一銀成☖5七飛成☗同龍☖4七角成☗9二成銀☖5七馬☗4三角☖3八金☗2一角成☖同王☗5一飛☖3一銀打☗5七飛成と先手としてはあまり変化のできない順に進んで☖4九飛の詰めろがかかりました。
                                     
 攻め合った結果として先手は駒得にはなったのですが玉の安全度が違いすぎ,第2図は後手が勝勢になっています。
 渡辺竜王が勝って1勝2敗。第四局は23日と24日です。

 フーゴー・ボクセルHugo Boxelが書簡五十五の中で,人間的属性が神Deusのうちに優越的にeminenter含まれているということをスピノザが否定するなら,スピノザが神ということで何を意味しているのかまったく分からないという意味のことをいうとき,神のうちに含まれているとしている人間的属性は,人間の精神的属性であって人間の身体的属性ではありません。一方,ウェルテルの記述からは,ウェルテルが人間の精神的属性が神のうちに優越的に含まれているとみなしているか否かは分からないのですが,少なくとも人間の身体的属性は神のうちに優越的に含まれていると解していることは間違いないと思われます。
 したがってボクセルとウェルテルは実は異なったことをいっているのですが,スピノザの哲学から見てみるとふたりは同じような過ちを犯していることになります。なぜなら,精神的な属性であれ身体的な属性であれ,それが神のうちに優越的に含まれるとみなすことは,どちらの場合であれ人間的属性によって神を理解しようとしている点では同じだからです。第二部定理一〇が示すように,人間の本性essentiaには実体substantiaの有は属しません。第一部定理一が示しているように実体は本性naturaの上で様態modiに先立ちます。そして第一部定理一四にあるように,実在する実体は神だけです。よって神は本性の上で人間に先立ちます。そして第一部定理二五から分かるように,神は人間の本性essentiaeの起成原因causa efficiensでなければなりません。したがって,人間の精神mens humanaであれ人間の身体corpusであれ,人間的属性によって神を理解することは,結果によって原因を理解することにほかならないのです。つまり原因の認識cognitioが結果の認識に依存していることになります。ところが第一部公理四により,実際には結果の認識が原因の認識に依存しなければならないのですから,ボクセルもウェルテルも,この点では同じような誤りを犯しているということになるのです。
 スピノザが人間のほかの事物に対する優越性を否定するのは,いい換えれば人間的属性が優越的に神のうちに含まれているということを否定するのは,一般にこの種の優越性が,結果による原因の認識であるからです。よって神からの人格の排除が重要なのです。
コメント
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